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親を大切にできない人間が出世したためしはない。後世に名を残したリーダーに共通しているのはいずれも親孝行だったということだ。田中角栄もまたそうだった。通商産業相(現経済産業相)、首相の秘書官として角栄を支え続けた最側近、元通産官僚の小長啓一の証言を『田中角栄のふろしき』(日本経済新聞出版社)から拾ってみよう。角栄にリーダーの条件を学ぶ7回連載。5回目は「礼節」。 =敬称略

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角栄が通産相に就任したのが1971年7月。その就任から3カ月で日米繊維交渉は決着した。日米繊維交渉は国家にとっての一大事。それが片付いたことで、大仕事に忙殺されてきた角栄に一瞬、時間的な空隙(くうげき)が生じた。久々のゆっくりとした時間。しかし角栄は外遊に出かけるでもなく、体を休めるでもなかった。その時間を親孝行に振り向けることにしたのだった。秘書官の小長を伴って角栄は新潟県にお国入りする。

その時のことを小長はいまだに忘れられない。

柏崎市西山町の角栄の生家は、周辺の家に比べ飛び抜けて大きいわけではない。庭に小さな柿の木のある、ごく普通の農家だった。田んぼも8、9反ほどだった。

胸が痛くなるような母のあいさつ

そんな家で角栄の母、フメは角栄と小長たち一行を迎え入れてくれた。角栄が国会議員となり郵政相、大蔵相を経て今度は通産相。堂々たるお国入りしたのだったから、フメも我が子のトントン拍子の出世をきっと晴れがましく眺めていたに違いなかった。

ところが、初めて会ったフメの腰の低いこと、低いこと。小長は驚いた。横柄な態度はただの一瞬もなかった。「何ともこちらの胸が痛くなるような人だった。まさに痛み入る感じだった」と小長は言う。

とにかくフメは徹底していた。その辺、さすが角栄の母親だった。

一行が到着すると脇からそっと出てくる。「いやあ。本当に遠くからお疲れさまでした。さあ、どうぞ、どうぞ。どうぞ。お座り下さい」。そうして小長に上座を勧めるのだ。

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