夏の夜に墓地へ埠頭へ タクシーちょっと涼しくなる話
鉛筆画家 安住孝史氏
夜の月島埠頭(東京・中央)=画・安住孝史氏
<<【前回】「走る」より「止める」が難しい 運転免許返納の理由
地球の異常気象が叫ばれていますが、日本は7月の雨天と涼しさが嘘のように猛暑が続いています。僕がタクシーに乗務したてのころは、車にクーラーは付いていませんでした。それでも、窓を開ければお客様も僕も平気でしたし、熱中症で人が倒れたという話も、あまり聞かなかったと記憶します。夕方になると、打ち水をして縁台で将棋を始める人も見かけましたし、風鈴を鳴らす涼しい風も吹き始めました。夜になっても蒸し風呂に入っているような今の暑さは、どうも昔の暑さとは質が違うようです。今回はちょっと涼しさを感じてもらえるような話を書こうと思います。
■クーラー登場を喜んだ女性たち
タクシーにクーラーが付き始めたのは2度目の会社勤めを始めた昭和40年代後半くらいからだと思います。もともと車体に装備されたものではなく、会社の整備工場で後から取り付けられたものです。場所は助手席のダッシュボードの下でした。
このクーラーをとくに喜んだのは夜のお店の女性たちでした。仕事を終えて帰るときには、後部座席ではなく助手席に座りたがり、前のドアをたたいて「運転手さん、開けて」と乗り込んできます。そしてスカートや着物の裾にクーラーの冷風を入れるのです。「ああ涼しい」とニコニコしていた若い女性の顔などを思い出しますが、きっと緊張しっぱなしのお店では見せない表情だったと思います。
少し粗野な感じもしますが、タクシーで素の顔をみせるお客様は珍しくありません。むしろ僕の方がちょっと気恥ずかしく感じたものですが、いやな思いもしませんでした。女性たちの、裏表のない素直な心根を好ましく思いましたし、暑さを忘れるユーモラスな空気が車内に広がりました。
背筋が寒くなる話もあります。夏の晩の11時ごろ、浅草で「八王子に行ってくれ」と40歳くらいの男性が乗ってきました。開襟シャツを着て、腰に手拭いをぶらさげています。深夜に遠くまで行く方にはなるべく声をかけ、話に乗ってこない場合は要注意、というのが僕ら運転手の経験則です。無賃乗車などのリスクが大きいからですが、その男性は話に乗ってきませんでした。