野人・岡野雅行さんのサッカー人生 高校から逆境続き
元サッカー日本代表・現ガイナーレ鳥取代表取締役GMに聞く(上)
「野人」の愛称で知られ、1997年、FIFAワールドカップ・フランス大会アジア最終予選で、日本代表をワールドカップ初出場に導くゴールを決めた岡野雅行さん。現在はガイナーレ鳥取で代表取締役GMを務め、チームを強くするために、スポンサーを獲得する営業活動などに全国を奔走する。決して「サッカーエリート」ではなかったという彼が、「ここぞ」という時のチャンスを成果につなげてきたメンタルや勝負強さは、学生時代からの逆境に立ち向かってきた経験によるものが大きいという。
――大きなプレッシャーがのしかかる中、果敢なプレーで歴史にも記憶にも残るゴールを決められた岡野さんですから、メンタルは相当強いのだろうなと想像します。
岡野 僕は、サッカーエリートではありませんでした。サッカー名門校に所属していたわけでもないですし、名門校どころかサッカー部がない高校に入学したくらい。そこからサッカーをどうしても続けたかったので、自分で道を切り開いて、巡ってきたチャンスをつかみ、日本代表になってワールドカップ初出場の風穴を開ける原動力の1人になれました。チャンスは決して多くはなかったですが、ここぞという時に結果につなげることができたのは、学生時代に培った、物おじしない精神面の影響が大きいと思います。
入学したら、サッカー部がない高校だった
――サッカー部がない高校に通っていた高校生がどのように日本代表まで上り詰め、強いメンタルを培ったのですか?
岡野 僕は横浜で育ち、幼い頃からいろんな習い事をしたのですがどれも続かず、唯一続いたのがサッカーでした。中学の成績は芳しくなく、勉強が嫌いだったので、中学卒業後にブラジルのサッカー留学を希望したのですが、家族に反対されました。結局、僕でも入学できるという叔父の勧めで、島根県松江市の松江日本大学高等学校(現:立正大学淞南高等学校)に進学します。島根なら都心に比べてライバルも少ないし、全国サッカー選手権にも出やすいとも思いました。もちろんサッカー部に入部する気満々でした。
しかし入学後、サッカー部がないことに気づきました。同じようにサッカー部があると思って入学した先輩が、校庭の裏でサッカーボールを1人で壁に向かって蹴っている姿を見て、がくぜんとしました。すぐに退学して横浜に帰ろうと思いました。
でも、自分が唯一続いたサッカーを諦めたくないし、逃げるような嫌な感じもありました。何よりも「得意なサッカーは続けろ」と両親も応援してくれていました。そこで先輩に「一緒にサッカー部を作りますか」と声をかけ、理事長に直談判しに行ったんです。僕らの熱い思いが届いて理事長の許可をもらい、部員を募集すると、20人ほど集まりました。
けんかっ早い先輩たちをどう引っ張ったのか
――経験者が多かったのですか?
岡野 いえ。サッカーをやりたいという生徒は少数で、ほとんどが未経験者の先輩ばかり。オフサイドといったルールも知りませんでした。
岡野 当時の母校は、とにかく校則が厳しく、門限が夕方の全寮制。全国から不良少年たちを集めてスパルタ教育を施す男塾を描いた漫画のモデルになったともいわれる学校でした。そんな学校のサッカー部ですから、部員は、寮から少しでも出られる時間があるという理由で入部した、「けんかだったら東大クラス」のやんちゃな生徒ばかりでした。
監督ももちろんいなかったので、経験者の僕が1年生ながら、小中学生の頃にやってきた練習法を先輩たちに教えて、コーチ代わりになりました。3年生の先輩に教えるなんて特に怖かったですが、1年生の僕が一生懸命教える姿に、「俺らも手伝ってやるか」という気持ちで話を聞いてくれたのだと思います。
サッカー経験のない生徒の集まりでしたが、けんかが強いタイプが多いので、運動神経にたけた生徒が多く、メキメキと力をつけていきました。でもいかんせん、けんかっ早いので、試合をすると相手チームとの小競り合いが始まり、試合を放り出してつかみかかったり、罵倒しあったりすることも多々ありました。試合で負けることよりも、試合もまともにできないありさまに悔しさが込み上げてきて、「こんなのサッカーじゃない!」と、僕はみんなの前で大声をあげて泣き、「こんな部、やめてやる」と寮に帰りました。
その夜、寮の僕の部屋に、先輩たちが「申し訳ない」と謝りに来てくれました。この日を境に、サッカー部は生まれ変わり、先輩たちは練習以外の時間も自主練をするなどして、チーム力は上がっていきました。
それでも練習試合では、最初は20点以上の差をつけられての大敗が続きました。でも、練習と試合を重ねるうちに点差は10点になり、徐々に縮まって同点で試合を終えた時は、うれしくて部員みんなで大泣きしました。
努力が実になって結果として見えると面白いものです。どんなきつい練習をしても、負けず嫌いで根性だけはある生徒たちなので、誰もリタイアしないんです(笑)。素直に練習にも取り組むので、コーチ役の僕も練習メニューを出しやすくなりました。
得意なプレーを磨く練習スタイルを選択
――例えばどんな練習メニューを考えたんですか?
岡野 学校の近くの崖の上でドリブルの練習をさせました。ボールが落ちたら崖の下に取りに行かなくてはいけない。崖を下りてまた上るのもトレーニングになります。選手たちは下に落としたくないから、必死にドリブルするのでうまくなるんです。僕自身一人っ子だったので、幼い頃からイメージを膨らませて一人遊びをすることが得意でした。だから、どうやったらゲーム感覚で必死になれて上達するトレーニングになるのか、アイデアを絞り出しながら、メニューを考えました。
さらに勝つためにはどうすればいいかと必死に考え、僕は先輩たちのプレーを見ながらドリブルが上手な人にはドリブルばかりをやらせるなど、得意分野を伸ばす方法を選びました。苦手なプレーを無理にやらせても、プレーも気持ちもどんどんマイナスになることが多い。上達したとしても平均点ぐらいでしょうか。であれば、90点のプレーが1つでもあれば、それで100点を目指させる方が、よっぽどその選手の武器になる。チームスポーツですから、得意なプレーが生きるポジションに選手を配置しました。
高校2年になった時には、顧問と一緒に電車に乗って大阪に行き、中学生に向けたトライアウト(適性検査)を開いて、上手な子を勧誘しました。学校側はサッカー指導者を部に呼んでくれるようになり、サッカー部用の寮も作ってくれました。ますますチームは強くなって、2年の時には地区大会で3位に入るまでになり、創設たった3年目には全国大会を目標に掲げられるまでになりました。しかし結局、本選に出る直前の試合で、僕がPKを外して負けてしまい、全国大会は夢のまま、高校のサッカー生活は終わりました。
――ゼロベースから何かを作って結果を残せたことは、自分にどのような収穫がありましたか。
岡野 サッカー部を立ち上げ、やんちゃな先輩たちを引っ張って地区のベスト4に入った経験は自信になりましたし、些細(ささい)なことではめげなくなりましたね。計画通りにいかず感情的になることもあったけど、自分がサッカーをやりたいという気持ちが揺るがなければ、なんとかなるという度胸がついたのではないでしょうか。
またチームスポーツは、人の成長を促すことも改めて学びました。要するに、部員たちの学力が上がったんです。「学力が足りず試合に出場できなくなると、みんなに迷惑をかける」という思いが生まれ、頭のいい生徒が、メンバーが分からない問題を教えるという光景が、自然に見られるようになりました。
洗濯係からレギュラーの座をつかむ
――進学した日本大学のサッカー部でも、最初はレギュラーではなかったんですよね。
岡野 地区予選で負けたので大学側のスカウトはありませんでしたが、スポーツ推薦で日大に入ることができました。でも日大のサッカー部はスカウトされた有名選手しか入部できず、僕は入部できなかった。そんな時、校舎に1枚の張り紙を見つけました。そこには「サッカー部部員募集」と書いてあり、入部テストを行って部員を選抜するといいます。記載された日時にその場所に行ってみると、テストを受けに来ていた生徒がなんと60人近くいて驚きましたが、その試合形式のテストで僕はとにかく走り回り、4ゴールを決めて60人のうちの合格者2人に選ばれました。ただ、喜んだのもつかの間、任されたのは洗濯係かマネジャーかという雑用係の役割。仕方なく洗濯係を選びました。
でも、試合に出られなくても夢中で練習しました。練習ができることが楽しかったのだと思います。そんな姿を見てくれたコーチが、天皇杯の予選で、骨折した先輩との交代選手として、レギュラーでない僕をピッチに立たせてくれました。出場した70分ほどで6ゴールをたたき出し、洗濯係からレギュラーに昇格を果たしたのです。
(ライター 高島三幸、カメラマン 厚地健太郎)
中 野人・岡野さん 大学中退からジョホールバル歓喜まで
1972年生まれ。日本大学中退後、浦和レッドダイヤモンズ入団。日本代表メンバーに選出され、97年のFワールドカップ・フランス大会アジア最終予選で日本を初のW杯出場に導く決勝ゴールを決めた。2013年引退、ガイナーレ鳥取GMに就任。2014年から夏・冬の2回、新戦力獲得のための寄付プロジェクト「野人プロジェクト」を開始。11回目の今回は梨や和牛など11種の御礼品を用意。9月末まで受付中。https://www.gainare.co.jp/special/2019/yajin-project19summer/index/
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