ベートーヴェン唯一のオペラ 失敗作の汚名返上なるか生誕250年控え「フィデリオ」上演相次ぐ

さらにベートーヴェンは交響曲やピアノ曲、弦楽四重奏曲などの室内楽に比べ、声楽曲の作曲に必ずしも長けていたわけではなかったのか、理想の追求を優先したのか、議論は分かれるとしても声楽家の生理に反する旋律や音階をしばしば用いた。レオノーレとフロレスタンのパートにも強じんな声と広い音域を的確にこなすテクニックを求めた結果、理想の歌手がなかなかそろわない。

個人的にも女性への強い憧れを持ちながら一度も恋を成就できず、生涯独身で終わった人生の反映なのか、女性心理の細やかな描写も苦手とした。台本にも責任はあるが、バーチャルな「夫婦愛」の理想を前面に押し出しながら「自由への希求」を力づくで歌い上げた結果、ドラマトゥルギー(作劇術)の矛盾が随所に表面化する。時間の進行とともにオペラより、合唱音楽劇へと近づく構造を逆手にとって次第に装置や動作を削り、演奏会形式に近付けていく演出家は1998年ザルツブルク音楽祭でのヘルベルト・ヴェルニケをはじめ、過去にも少なからずいた。

1998年ザルツブルク音楽祭のヘルベルト・ヴェルニケ演出、ミヒャエル・ギーレン指揮の「フィデリオ」。幕切れが近付くにつれて装置が減り、演奏会のようなビジュアルとなる。撮影=Bernd Uhlig(ベルント・ウーリヒ)、提供=Salzburger Festspiele(ザルツブルク音楽祭)

ダークヒーローの登場で舞台に説得力

ナポレオンの王政復古に失望したベートーヴェンら、ヨーロッパの知識階層が閉塞感を強めるなか、一般の人々は「信仰」「夫婦愛」「家族愛」の身近な世界に回帰していく。「神様を信じていれば」「正しい生活を送っていれば」「夫婦が力を合わせれば」幸福が訪れる、といった小市民的でバーチャルな理想論、あるいはそれに対する警鐘が「フィデリオ」や、続く時代のウェーバーの「魔弾の射手」などのオペラの中には存在する。

現代人の視点からは「あり得ない」設定にどうつじつまを合わせ、説得力のあるビジュアルや音を提示するか? 多くの演出家や指揮者が「フィデリオ」の矛盾と今日も格闘するなか、大作曲家ワーグナーの曽孫(ひまご)に当たるカタリーナは昨年、新国立劇場で鮮やかな模範解答の1つを示した。フロレスタンを幽閉した悪役ドン・ピツァロは単なる政敵ではなく、かつてレオノーレの獲得を争った恋敵という設定。さらにはフロレスタンにもホモセクシュアルな思いを隠せない、倒錯のダークヒーローとして描かれる。

悪役が勝利する結末のドン・ピツァロ(ミヒャエル・クプファー=ラデツキー、手前左)とドン・フェルナンド(黒田博)撮影=寺司正彦、提供=新国立劇場

ドン・ピツァロは救済の場面以前にフロレスタン、レオノーレを刺し殺して「思い」を遂げ、序曲「レオノーレ」第3番が演奏される間、地下牢への入り口に石を積み上げ、夫婦の死体を閉じ込めてしまう。通常の舞台では「白馬の騎士」よろしく、救済の象徴として最後に現れる大臣ドン・フェルナンドも悪役に回り、自分の「お気に入り」数人の囚人以外は解放に駆けつけた配偶者ともども、再び牢に押し戻す。ルイス・ブニュエル監督の不条理映画「皆殺しの天使」を思い出させる結末だ。

石室のレオノーレとフロレスタンは死後の世界から、幕切れの感動的な二重唱を歌い上げる。死がもたらした永遠の絆。客席で鑑賞した東京フィル首席指揮者、イタリア人のアンドレア・バッティストーニは「『アイーダ』(主人公の男女が地下牢で息絶えるヴェルディの歌劇)を指揮する予習に最適の『フィデリオ』だった」と、驚きをあらわにした。カタリーナはベートーヴェンが夢見た理想社会とは異なる方向に後のヨーロッパ社会が展開、救済が一瞬の幻想でしかなかった事実を冷静に描き、私たちが「フィデリオ」を観る際の白々しさを取り払った。

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