「ミネラル麦茶」の石垣食品はスパイス輸入で創業し、インスタントラーメン用スープの製造を受託、さらにカップ麺用乾燥具材の開発、製造の受託と新事業を次々手掛けてきたアイデアの会社だ。石垣裕義社長は「これからの時代、大きな変化を起こさなければ生き残れない」と決意。定款を大幅に変更し、新たな分野でのさらなる課題に挑戦する。(前回の記事は、「ミネラル麦茶の石垣食品 今なぜワインの飲み放題店」)
――フジミネラル麦茶を考案した創業者がアイデアマンだったそうですね。会社はどのようにスタートしたのでしょうか。
創業者の石垣敬義(故人)は私の父ですが、若い頃から食に興味を持っていて、東大に通っていた学生の頃から甘味喫茶の店の経営もしていました。そのなかで、製菓材料にするデーツなど当時入手しにくかったものから、食品の輸入も手がけるようになり、その後、1957年に石垣食品を設立してスパイスの輸入を開始しました。
また、年齢的に出征こそしませんでしたが、戦中戦後の食べ物に不自由する時代を身にしみて知っていたわけで、食の世界を豊かにしたいという思いは強かったようです。創業の前後、50年代から60年代にかけての時代は、日本社会がそんな食糧難の時代から脱して、いろいろなものを食べて嗜好も変わっていった頃でしたから、スパイスに商機を見いだしたようです。
そして、設立から間もない頃、そのスパイスの得意先となったのが、新しく登場したばかりのインスタントラーメンのメーカーでした。
――日清食品が「チキンラーメン」を発売したのが58年で、その頃からインスタントラーメンを作る会社が増え出しました。
ちょうどそのタイミングだったわけです。その後、いわゆる袋麺は粉末スープを別添えする形が主流になりましたが、当社でもスパイスでのお付き合いから、その小袋に封入した粉末スープを作って納める仕事が始まりました。
――カップ麺の乾燥具材もその延長での受託ということですね。
そうです。袋麺に続いて、日清食品は「カップヌードル」を発売しましたが、これに乾燥具材が必要となった。そして、当時そういうものは世の中になかったので。メーカーからの要望を聞いて工夫しながら作ったものです。今も、一番たくさん納めているのは日清食品さんです。
――ビーフジャーキーは麦茶ともインスタントラーメンの仕事とも結びつかない印象があります。これはまた別の発想から開発されたものになりますか。
実は、麦茶とも乾燥具材とも関係があります。工場の稼働の事情から発想し、既存技術を生かして開発したものなのですが、順に説明しましょう。まず、看板商品の麦茶は夏場に売れるシーズン性の強い商品です。したがって、その生産は春夏に集中します。このため、当社の工場では春夏に麦茶を製造し、秋冬に乾燥具材を生産するという形で回っていたのです。
しかし、バブル景気の頃の人件費高騰という環境下で、人手がかかる部分を海外にうつすことにしました。すなわち、91年に中国に合弁会社を設立し、乾燥具材の製造をそちらに移したのです。
この結果、秋冬に国内工場で製造する商品が必要になったのです。しかも、この機会にOEMではなく麦茶に続く自社ブランドの商品がほしいと考えました。そこで、いくつかのアイデアを試行錯誤したなかで有望となったのが、ビーフジャーキーだったのです。これは、肉に味付けをして乾燥させるものですから、基本的には乾燥具材の技術を生かすことができました。