結局、離婚して実家に戻ることにした。事業もすべて手放した。生活のためにパン店で働き始めると、オーナーからフランスで学ぶよう勧められる。ちょうど日本にも、ハード系のパンが入り始めた時期だった。広島で子どもと同じ時間を過ごすことがつらかったこともあり一人、フランスへ旅立つ。
うつの症状があり、子どもは引き取れませんでした。全てを失い、何もない自分。広島で子どもと同じ時間を刻むのが、すごくつらかった。「いま起きたかな」とか、「学校行ったかな」とか。復縁も考えたけれど、うまくいきませんでした。このままではいけない。いつか子どもが大きくなったとき「この人が僕の母です」と胸を張って紹介してもらえる自分になる、と心に誓いました、自分にできることはパンを焼くことです。ハード系のパンを学ぶため単身、フランスへ渡りました。35歳の時です。
知人の紹介などを経てパリ16区の店で働き始めました。でも、心はいつも息子たちのいる広島です。子どもに会うために飛行機代を稼ぎ、お土産を買う。ただそれだけが目標でした。周りからは「日本に帰って子どもたちのそばにいてやるべきだ」と言われたこともあります。でも、パリでなら今の状況から抜け出せる、子どもたちが自慢できる母になれると感じていました。
大人になって口にする言葉が親の成績表
3カ月に一度は実家に戻り、1週間ほど子どもたちと一緒に過ごします。ご飯をつくって一緒に食べ、部活動の世話人とか習い事の送迎もしました。できること、思いつくことは全部やろうと決めていました。会える時間が限られているから、周りの目なんか気にしていられません。子どもだけを見ていました。子どもたちには、「何かあったらお母さんが必ず守るから」と伝え続けました。離婚して、日々の母親業はあきらめざるを得ませんでした。私にしかできないことといえば、母としての愛を伝えることだけでした。
それでも、子どもたちが素直に受け入れてくれたわけではありません。特に長男です。会うことこそ拒否しませんでしたが、長い間、自分の目を見て話してくれませんでした。振り返れば、離婚したとき長男は中学生。私がいなくなって一番大変だったはずです。長男が大学生になって東京に住み始めてからも、日本に来るたび下宿先を訪ね、泊まって洗濯したり、ご飯を作ったりしました。あるとき「じゃあこれでフランスに帰るね」って扉を閉めようとした瞬間、私の目を見て「おかあさん、ありがとう」と言ってくれました。今までやってきたことが間違っていなかった。玄関先で涙が止まりませんでした。
子育ては短いけれど、人生は長く続きます。小さい頃は自分の気持ちをうまく言葉にできなくても、成長すればはっきり表現します。もちろん、自分の母親についても。子どもたちが大人になった時、親をどう見るのか。そこで出てくる言葉こそ、親の成績表なんだと思います。だから、自分に自信が持てる人になっておくことが重要だと考えています。
跡継ぎとして経営者の道を歩き始めた長男は30歳になり、最近は仕事を手伝ってほしいと冗談交じりに言われるようになりました。同じ経営者としてアドバイスを求められることもあります。京都での催事に顔を出すと、会場にいた次男は自分の取引先に「僕の母です」と紹介してくれました。そして三男。叱ることもありますが、意外に難しい。距離があるとできない。だから厳しく叱れる関係になったことをうれしく感じています。
パリで再婚し、生まれた娘は今12歳です。日本に来てお兄ちゃんに会うことをいつも楽しみにしています。パリでの子育ては、私が経験した日本のそれとは全く違いました。
(聞き手は女性面編集長 中村奈都子)