実は先史時代から人種のるつぼ 欧州人のルーツを探る
先史時代の人々の遺骨から採取したDNAの解析により、欧州は大昔から人種のるつぼだったことがわかってきた。ナショナル ジオグラフィック2019年8月号では、人類と移動についての特集の中で、最新研究を紹介しながらヨーロッパ人がどのように誕生したかをレポートしている。そのルーツは、アフリカや中東、ロシアの草原地帯と、想像以上に広がっている。
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「(欧州には)先住民などいません。自分たちの純粋なルーツを見いだそうとしても、そうした概念が無意味であることに気づかされるはずです」。こう話すのは、古遺伝学者のデビッド・ライヒだ。
今から32年前、現代人のDNA解析からある事実が判明した。現在アフリカ以外の地域に住む人々はすべて、6万年以上前にアフリカ大陸を出た現生人類(ホモ・サピエンス)の子孫であるということだ。アフリカを出たホモ・サピエンスの集団は、中東から北西に進み、およそ4万5000年前に初めてヨーロッパ大陸に進出した。
当時の欧州は、人を寄せつけない過酷な土地だった。大陸の一部は厚さが何キロもある氷床で覆われていた。比較的温暖な土地には、野生動物が生息し、先住者であるネアンデルタール人がいた。彼らの祖先は、ホモ・サピエンスより何十万年も前にアフリカを出て各地に広がり、過酷な環境に適応していたのだ。
ヨーロッパに渡った最初のホモ・サピエンスは、小さな集団を形成し、狩猟採集をしながら移動生活を送っていた。彼らはドナウ川に沿って移動を続け、ヨーロッパの西部と中央部の奥地まで到達したが、数千年もの間、ほとんど移住地に影響を与えなかった。
DNA解析により、彼らとネアンデルタール人が交雑していたことがわかっている。ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの進出後、5000年足らずで絶滅したが、現在の平均的な欧州人は、ネアンデルタール人のDNAを約2%受け継いでいる。
欧州の大半の地域が氷に閉ざされると、ホモ・サピエンスは凍結していない南部にとどまりながら、寒冷な気候に適応していった。約2万7000年前、彼らの人口は1000人ほどだったようだ。大型の哺乳類を捕らえて食べ、住居にしていた洞窟に獲物の動物を生き生きと描き、彫刻を残した。
およそ1万4500年前、気温が上がり始めると、人々は後退する氷河を追うように北上していく。その後の数千年間で、より高度な石器を作り、小さな集落を形成して定住するようになった。中石器時代と呼ばれる時代だ。
1960年代にセルビアの考古学チームが、ドナウ川の湾曲部にある急な斜面で中石器時代の漁村の遺跡を発見した。レペンスキ・ビールと呼ばれるこの遺跡は、およそ9000年前に生まれた、人口100人ほどの手の込んだつくりの集落跡だ。
ここで出土した人骨から、住民たちは魚を主な栄養源としていたことがわかった。「魚が食べ物の7割を占めていました」と、遺跡の管理責任者を務めるフラジミール・ノイコビッチは言う。「村人たちは約2000年間、ここで暮らしていましたが、後に流入してきた農耕民に追いやられたのです」
現代のトルコの穀倉地帯であるアナトリア地方中部のコンヤ平原。考古学者のダグラス・ベアードによると、ここには人類が農耕を始めた頃から農耕民がいたという。彼はここで、ボンジュクルと呼ばれる先史時代の集落の発掘調査を行ってきた。今からおよそ1万300年前、新石器時代が幕を開けた頃、人々はこの一帯で小麦の古代品種の栽培を始めた。
人々が農耕と牧畜を始め、定住生活へと移行した「新石器革命」は、1000年足らずでアナトリア地方から北へ広がり、欧州南東部まで伝わった。そして約6000年前までには、欧州全域で農耕と牧畜が行われるようになっていった。
トルコもしくは地中海東岸のレバント地方から農耕が伝わったことは、以前からわかっていた。だが、同じ地域から農耕民も流入したのだろうか。農耕を含む一連の新技術は、移住者が欧州へ持ち込んだのではなく、交易や口承で伝えられたのだと、考古学者たちは長年考えていた。
ところが、ボンジュクル遺跡で出土した人骨のDNA解析により、移住者の役割がかなり大きかったことがわかってきた。ボンジュクルの農耕民は死者を身近な場所に埋葬する習慣があり、住居の床下に埋めた。ベアードは2014年以降、十数カ所で出土した頭蓋骨の破片と歯のDNAサンプルを複数の研究所に送り、解析を依頼してきた。
ボンジュクル遺跡で出土した錐体骨は大きな成果をもたらした。そのDNAを解析した結果、何百キロも北西に離れた場所で、何世紀も後の時代に生きた農耕民と血縁関係があることが判明したのだ。つまり、初期のアナトリア地方の農耕民は欧州に移住して、その遺伝子と生活様式を広めたということだ。
彼らの子孫は何世紀もかけてドナウ川に沿って移動し、ヨーロッパ大陸の中央部まで進んだ。それとは別に、南ヨーロッパ全域に広がった人々もいた。彼らは地中海沿岸を船で進みながら島々に上陸し、遠くはヨーロッパ大陸の西端、ポルトガルまで到達した。ボンジュクルから現在の英国にかけた地域では、農耕が始まったのと同じ時代から、アナトリア地方の人々の遺伝子が出現している。
こうして欧州に新石器文化をもたらした農耕民の多くは、肌の色が明るく、褐色の目をしていた。それは、先にこの地で暮らしていた狩猟採集民とは正反対の特徴だ。「外見も言葉も、食生活も違ったのです。二つの集団はおおむね別々に暮らしていました」と、考古学者のデビッド・アンソニーは語る。
互いの道具や伝統を取り入れた痕跡はほとんど残っていない。アンソニーはこう語る。「接触があったことは確かですが、男女の交流はなかったようです。人類学の常識とは裏腹に、異なる集団のメンバーがセックスをすることはなかったのです」。言い換えれば、よそ者に対する警戒心は大昔からあったということだ。
およそ5400年前、ヨーロッパ全域で新石器文化の集落が一挙に衰退、あるいは消滅した。その原因はいったい何だったのか、考古学者たちは何十年も頭を悩ませてきた。「人工物やその材料、人骨、遺跡。何もかもが減りました。何か大きな出来事があったと考えなければ、説明のつかない事態です」と、クラウゼは言う。だが、大規模な紛争や戦乱が起こった形跡は見つかっていない。
それから500年ほど経ち、人口は再び増え始めたようだが、何かが決定的に変わってしまった。ヨーロッパ南東部では、住民を分け隔てなく埋葬した共同墓地が姿を消し、代わりに成人男性を一人だけ葬り、大規模な盛り土をした墓が現れたのだ。この時期、もっと北のロシアからライン川にかけた地域では、縄目模様のある土器にちなんで縄目文土器文化と呼ばれる新しい文化が花開いていた。
(文 アンドリュー・カリー、写真 レミ・ベナリ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック日本版 2019年8月号の記事を再構成]
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