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お年寄りもディスコへGO 車いすで「綱引きポーズ」 DJ OSSHYさん(下)

2019/7/23 日本経済新聞 夕刊

DJとしての長いキャリアのなかで「父親に認めてもらいたい」と思い続けてきたという(2017年、東京・恵比寿のイベントで)

令和のニッポンに再来したディスコブーム。仕掛け人の「DJ OSSHY(オッシー)」こと押阪雅彦さん(53)が新たなファンとして着目しているのが、お年寄りだ。足腰が弱っていても、音楽に合わせて腕などを動かせば楽しく汗をかける。連載の後編では、高齢社会におけるエンターテインメントの可能性についても語ってもらった。(前編は「ディスコブーム、令和に再び 仕掛け人が語る『本気』」

OSSHYさんがディスコと出合ったのは1982年、高2の夏だ。先輩に連れられて東京・渋谷の店を訪れた。10代の少年には衝撃的な体験だった。

当時の立教高生はませていたので、背伸びして大学生の遊びをまねすることがはやっていました。ディスコに足を踏み入れた瞬間に「何だ、この世界は」と驚きました。天井のミラーボールがキラキラと光を放ち、大人たちが華麗に踊っている。別世界に来た感覚でした。

そのころは寮を出て自宅から通学していたので、毎週のようにディスコに行くようになりました。当時のディスコは「フリードリンク・フリーフード」。1000~1500円の入店料を払えばよかったので、高校生の小遣いでも通えたのです。

1980年代、DJ修業をした渋谷のディスコ店「キャンディキャンディ」で(左が本人)
友達の目当ては女の子との出会い。それをよそに、会場のブースで音楽をかけるDJの一挙手一投足を、食い入るように見つめていた。

ナンパもしないで変な奴だと思われたのでしょう。数カ月たったころ、顔見知りになったモンチさんというチーフDJが「そんなにDJがやりたいのか。やる気があるなら紹介するぞ」と声をかけてくれました。ある店でDJの空きが出て見習いを探しているというのです。当時、DJは人気職業で狭き門でした。天にも昇る心地でした。

モンチさんからは「根性がないとやっていけない厳しい世界だぞ」と念を押されました。私は「三日坊主にはなりません」と即答しました。

紹介されたのは渋谷の有名店「キャンディキャンディ」。しかし両親はディスコでのアルバイトに猛反対した。父は民放テレビ初のフリーアナウンサーである押阪忍。子供が有名人の子息として有頂天になるのを恐れて、しつけに厳しかった。

当時のディスコは不良のたまり場というイメージがありました。父は世間体を気にして「すぐ辞めろ」と言う。いつもは優しい母でさえ顔を曇らせました。高校生のバイトが珍しかったし、たばこの煙が立ちこめる場所で体を壊さないかと心配したのです。

でも私は自分の判断で、ディスコのアルバイトを始めました。親の言うことを素直に聞いてきた子どもが、初めて逆らったのです。

見習いDJは客の少ない時間帯にプレーさせてもらえます。曲のつなぎを失敗すると、「お前、下手くそだな」と先輩DJから小突かれ、容赦なく蹴られました。でも私は音を上げませんでした。高校時代はずっと見習いで、大学生になってから独り立ちして、いろいろな店でDJのバイトをしました。

米国に語学留学していたときは現地のパーティー会場でプレーしたことも(2018年、東京・お台場のイベントで)

大学を卒業して広告会社に入りましたが、何か物足りなさを感じて2年で退社。米オクラホマ州の大学に1年間、語学留学しました。南部は黒人音楽が盛んな土地柄です。日本でDJをやっていたと自己紹介すると、みんなが私をリスペクト(尊敬)してくれました。「何かプレーして」。多くのパーティー会場に呼ばれました。

帰国した91年にFMヨコハマに中途入社したのも、米国での経験からです。現地でDJをしているビデオを採用の人に見せたら、興味を持ってくれました。ここで趣味のDJと仕事が初めてつながったのです。

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