1970~80年代に流行したディスコが、再び盛り上がる兆しを見せている。象徴ともいえる六本木のマハラジャにはミドル層が詰めかける。昨年には、7月22日がディスコの日に制定された。ブームの仕掛け人は「DJ OSSHY(オッシー)」こと押阪雅彦さん(53)。37年間のDJとしての歩みは、日本のディスコの歴史そのものだ。
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平成最後の4月30日は東京・六本木のディスコ「マハラジャ」でDJとしてプレーし、夜の10時から令和時代が明けた午前0時すぎまで場を盛り上げました。いつもは100人も入れば満員なのにこの日は500人も押し寄せました。
ディスコが全盛だったバブル期と違うのは、お客さんの中心が40、50代のミドルであること。若い頃にディスコに興じた人たちが戻ってきたのです。
私が司会するディスコラジオ番組「RADIO DISCO」が始まったのが2012年。ほぼ時を同じくしてマハラジャが復活し、お客さんの子育ても一段落しました。様々な要素が合わさって、ディスコブームが再来したと思っています。
私は今年でDJ歴37年。バブル崩壊後、ディスコは廃れ、音楽のジャンルを一つに絞った「クラブ」に踊り場の主流が移りました。ジャンルを問わず何でもかけるディスコは古臭いと思われたのです。DJの多くが引退しましたが、私はディスコにこだわってきました。青春時代のディスコ音楽にほれ込んでいたからです。
「DJはレコードやCDをかけるだけ」と思われがちですが、私は「音楽の料理人」と考えます。出だしから終わりまで起承転結をもたせ、時にはアドリブで曲目を替えて客を盛り上げる。一度たりとも同じ料理を出したことはありません。どんな状況にも瞬時で対応する引き出しを持っていることが、若手DJにない強みだと思います。
7月22日は、日本にディスコ文化を初めて紹介した米国の青春映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の公開日です。昨年はちょうど40周年でした。当時の若者たちはこれを見て、米国にはこんなに心ときめく音楽と踊りのカルチャーがあるということを知りました。「フィーバー」が流行語になり、80年代にディスコ全盛期を迎えました。

平成の終わりに再び巡って来たディスコブームを、一過性で終わらせたくない。それには日本のディスコの原点となる日を顕彰しなければならない。そう思って、音楽関係者と相談して記念日を申請しました。
ディスコは今や若者だけの特権カルチャーではありません。17年からは「高齢者ディスコ」と称し、老人ホームや介護施設を訪れています。いつか「ディスコの日」が社会に認知され、老若男女がともに踊れるようになればと本気で思っています。