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「明治からの流れをくむが、人形町今半はアイデアマンの父が初代」と高岡社長

――関東大震災は大きな転機になったのでしょうね。

本店が焼失しました。その後、復興で道をひき直したときに本店の土地が分かれて小さくなってしまった。そして1928(昭和3)年に相澤さんと分かれて、うちの高岡の方は浅草の国際通り沿いに浅草今半を作った。

人形町今半は、この浅草今半の支店として、1952年に今の場所にできました。そして、浅草今半は長男が継ぎ、次男の陞(のぼる)は、私の父ですが、自分は店には関係ないだろうと、三井物産大合同前の商社に就職して商社マンとして働いていました。ところが、人形町の支店を強化するというので、1953年に無理やり家に戻されて、翌年支店長になりました。

ところが、浅草今半の長男が若くして亡くなってしまい、奥様が店を継ぐことになりまして、以降はそれぞれ別々にやっていったほうがいいだろうということで、「浅草今半」と「人形町今半」とに屋号を変えました。それが1956年で、父が人形町今半の経営者になった。

――お父さん、先代の経営はどのようだったのでしょうか。

ワンマンというか、好きなことをしていました。そして何よりアイデアマンでした。柳川鍋をヒントに、すき焼きを温かいままお届けするすき焼き弁当を考案したり。「生肉をお土産にしたい」というお客様の声に応えて精肉販売を事業化したり、さらに物販用の食品や総菜も事業化していきました。

そうして父なりの路線で事業を展開していったので、「自分は人形町の初代だ」という自負がありました。それで、私には「長男のお前は人形町今半の二代目だぞ」と、幼い頃から後を継げということは言われていました。

――では、早くから家業を継ぐ気持ちがあったのですね。

いいえ。親に言われると反発してしまうのが男の子ですよ。父のようなことができるだろうかと考えるとプレッシャーにもなり、違うことを考えていました。大学卒業後は父も何年かほかの会社に勤めていいというので、コンピューターの会社に就職しました。ところが、3年過ぎた頃から早く戻って来いとしきりに言われて、結局4年後に人形町今半に転職しました。

ところが、入社してみると、会社が一つにまとまっていないと感じた。それで、入社1週間目ぐらいに、父のところへ行って、生意気にも、「この会社は社長が思っているより大きい会社ですよ」と言いました。

以前、20~30人の規模の頃は、社長が号令をかけると皆その通りに動いた。ところが、社員250人前後、売上高35億円の規模になっていたその頃になると、社長の一声に対する反応が鈍くなっていたんです。

父もそのことに気づいていて、それで私が入社するのをせかしたのだと思いますが、一方で「お客様第一」とする店の理念を文書化して、新しい経営に移行していきました。

――代替わりしたのは何年ですか。

2001年6月に私が継いで、代表取締役になりました。ところがその3カ月後に外食業界を揺るがす大事件が起きた。人形町今半もお客様が激減して会社存続の危機に見舞われ、父は弁護士のところへ会社のたたみかたを聞きに行っていたほどです。

――たいへんなスタートになったのですね。次回はその危機からうかがいます。

高岡慎一郎(たかおかしんいちろう)
1958年生まれ。玉川大学卒業後、コンピューター関係の会社に就職。84年人形町今半入社。仕入れや弁当の営業など地道な業務からスタートし、店長、総支配人、常務を経て、2001年社長に就任。2018年から大規模外食企業の業界団体、日本フードサービス協会(JF)会長を務める。

(香雪社 斎藤訓之)


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