元スケーター・中野友加里さん 初めての「お疲れ様」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は元フィギュアスケーターの中野友加里さんだ。
――ご両親はどのような方ですか。
「父は愛知県で、主に自動車に使われるネジを製造する会社を経営しています。家族を大切にしてくれる父です。母は兄、姉と私の3人の子育てをしつつ、会社も手伝うというスーパーウーマン。とにかく体力のある人です」
――ご家族のサポートがあったからこそスケートを続けられたと聞いています。
「姉が習っていたことがきっかけで3歳から始めたのですが、6歳で名古屋市のリンクで山田満知子先生にコーチをしてもらうようになってから、24歳で引退するまで母は私につきっきりでした]
「18歳で練習拠点を新横浜に移し、佐藤信夫先生に教わるようになると『心配で1人で行かせられない』と愛知と新横浜を車で往復してくれました。練習の付き添いや体形維持のための食事など全面的にサポートしてくれました。母なしでは競技を続けるのは難しかったと思います」
――金銭的な負担も大きかったのでは。
「衣装代、靴代や遠征費、交通費など、今の時代なら年間1千万円単位にもなるといわれます。でも、ありがたかったという自覚が生まれたのは、引退して社会人になってからです。現役の時は当たり前と思っていて、感謝していませんでした。恐ろしい子どもでしたね」
――心理面ではいかがでしたか。
「家族も一緒になって戦っていたと思います。もちろん1人で演技をするのですが、精神的にはむしろ私以上に戦っていたかもしれません」
「才能がないと思っていたので、とにかく練習すれば、いつか実を結ぶと信じていました。母も同じ考えで、甘やかすことはなく、競技以外でも厳しかった。演技がうまくいかないと、お互いに悔しさをぶつけてけんかばかりしていました」
――目標の五輪出場を果たせず、引退を決めました。
「2006年のトリノ大会に行けず、次のバンクーバーこそという気持ちだけで現役を続けましたが、わずかの差で五輪には手が届きませんでした。代表選考が終わった夜、初めて母が『お疲れさまでした』と言葉をかけてくれました。私は『申し訳ない』という気持ちだけ。まもなく10年になりますが、この思いは消えないですね」
――ご自身も2人のお子さんの母になりました。スケートをやらせたいですか。
「私が個人スポーツだったので、チームスポーツの方がいいと思います。でも、本人がやりたいことを尊重します。できれば自分の知らない競技がいいですね。こんなことができるんだと褒めてあげたい。厳しかった親に似てしまうかもしれないけれど、違うやり方もあるんだと学びながら子育てしたいですね」
[日本経済新聞夕刊2019年7月9日付]
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