モデル・アンミカさん 母からもらった夢、職業に
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はモデルのアンミカさんだ。
――幼少期に韓国から日本に移り住みました。
「間借りした4畳半に両親と5人きょうだいの7人で暮らしていました。色が悪くなった果物を市場から拾ってきて食べるほどの貧乏。学校の給食費を払えずに恥ずかしいと思ったこともありますが、悲壮感はありませんでした。家族がいつもそばにいるので温かい気持ちでしたし、おもしろいことを歌にして表現するなど歌声であふれていました。恵まれた貧乏といえるかもしれません」
――子どものころから家計を支えていたとか。
「両親が経営する2軒のラーメン店が軌道に乗り、家族旅行が実現したころ、相次ぐ火事で2軒とも失う不運に見舞われました。追い打ちをかけるように母が病気で倒れ、父は治療費を捻出するため出稼ぎに。私も中学時代にはもう新聞配達していました。弟や妹の面倒もみなくてはなりません。確かに大変だったけれど、思い悩む時間はありませんでした。だから反抗期なんてなかったですよ」
――両親の教えが今の仕事に生きているそうですね。
「母は夢を与えるのが上手。きょうだいはみな母が言った通りの職業についています。私はケガをした口元がコンプレックスで内気な子どもでした。鏡の前にいると、ミカちゃんは手足長いしモデルになれるかもよと言ってくれたのです。『美人とは一緒にいて居心地のいい人』というのが母の持論。姿勢を良くして笑顔でいることが大事などと教わりました。口角を上げる練習は口元のリハビリにもなったんです」
「父は高いハードルを課す人。私がモデルを目指すと決めたときも条件をつけました。一流モデルになるまで家に戻らない、新聞を読む、資格を取るなどです。いまテレビのコメンテーターを務めていられるのも、社会問題に関心を持つように方向付けてくれた父のおかげです」
――ご両親は早くに亡くなりました。
「母は私が15歳のときに、父は29歳のときに他界しました。亡くなる前の数年間、母には家事から性のことまでいろいろと教わり、密度の濃い時間を過ごしました。年を経るごとに美しい思い出になっています。モデル事務所に入ったことは病床の母に報告できましたし、父もパリ・コレクションに出たことを喜んでくれました。親孝行はできたと思っています」
「同じきょうだいでも両親の思い出がそれぞれ違うんです。話すたびに発見があって楽しい。集まるときは韓国式にひざを立て、お互いの手足に触れながら話し込みます。大きなテーブルもあるのに、床に座って狭いところで固まっているので米国人の夫はびっくりしています。きょうだいで親の分まで長生きしたいですね」
[日本経済新聞夕刊2019年7月2日付]
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