新しい挑戦をバックアップしてくれた古巣の存在
プロランナーとして自由な商業活動に踏み切ろうとする時に味方になってくれたのが、古巣のリクルートでした。同社には、個人の価値を認めて評価し、新しいことを始めようとする人を応援してくれる社風があります。当時、私の社外広報担当だった古西宏治さんは、手を尽くしてあらゆる部門に一生懸命掛け合ってくれました。
JOCからは、“特例”としてならプロとして認めると言われました。でもそれでは、社会で生きる一人の人間としての当たり前の権利を認めてもらったことにはなりません。今後、他の選手が自分の意思でプロの道を選べるように、あくまで“前例”としてプロになりたいのだと主張し続けました。
その間、私は陸連登録を外れていたので陸連のレースには出場できず、どうせ走れないならばと米国に語学留学していました。こう着状態が2年半続き、ようやくJOCに正式にプロとして認めてもらうことができたのは、1999年5月のことでした。
JOCから正式にプロとして認めてもらえるまでの間、不安がなかったといえばウソになります。ですが、米国滞在中、海外の選手に自分が肖像権について戦っていることを話したら、「裕子はなぜ、そんな当たり前のことで戦っているの? そんな自由もない状態で、日本の選手は平気なの?」と驚かれました。私が求めていることは、決してわがままでも非常識でもない。状況は必ず変わると信じていたのです。
あの時の私の主張や行動に対して、「天狗になった」「調子に乗っている」「五輪選手に選んでもらった陸連への恩を忘れたのか」などと思われた方もいらっしゃったと思います。特に、当時の日本のスポーツ界では、謙虚でいることを美徳とし、自分の権利、特にお金が絡む主張をすると叩かれるような風潮がありました。でも、私はただ、自分の生き方を自分で選んで、前に進みたかっただけで、それをかなえるための選択肢を得る権利はあると思ったのです。
自分の人生に責任を持つことの充実感
米国滞在中、私は、プロランナーとしての最初の仕事であるボストンマラソンを目指して、トレーナーや練習パートナー、エージェントに自分で報酬を支払いながらトレーニングに励みました。これだけ世間を騒がせてプロになったのですから、結果を出さなければいけないというプレッシャーはたっぷりありました。でもそれ以上に、やりがいがあったんです。それはきっと、自分で選んだ道だったからだと思います。走ることを生業とし、自分の人生に責任を持つことの充実感を味わえたような気がしました。
そうして臨んだ1999年4月のボストンマラソン。アトランタ五輪以来、2年9カ月のブランクを経てのレースでしたが、2時間26分39秒の3位でゴールすることができました。自己ベストを8年ぶりに更新することができ、ホッとしたことを覚えています。
2002年には、アスリートのマネジメント会社「株式会社ライツ」(現在の株式会社RIGHTS.)を設立しました。この社名には、アスリートとしての権利、人としての権利を大事にしたいという思いが込められています。
私がプロになった後、マラソンの高橋尚子さんや水泳の北島康介さんなどのメダリストがプロ宣言し、現在へとつなげていただいたことを感謝しています。アスリートも、自分の価値を最大限に生かして生きていくための選択ができるようになったことが、何よりもうれしいです。
プロとして生きていくためには厳しいことが多く、成功するには結果を出すことが常に求められます。でも例えば、マラソンの川内選手は、すべての大会を本当に一生懸命に走ります。そんな他のランナーとは少し違う、唯一無二の魅力があれば、たとえ「レースに勝ち続ける」ことができなくても、生き残れるとも思います。もし走れなくなっても、後進や市民ランナーを指導したり、ランニングクラブを作るビジネスを始めたりするのも、走ることを生業にしたプロの仕事です。
2020年の東京五輪にはプロとして挑む選手もいるでしょう。五輪が終わった後に、今後の自分の道を選ぶ選手も多いかと思います。プロの道を選ぶ選手は覚悟を持って、厳しさも楽しむぐらいの気持ちで進んでほしいと思います。もちろん、プロになる、ならないは個人の選択であって、どちらが正しいというものではありません。プロであってもなくても、自分らしい生き方を模索しながら、自分の道は自分で選んで責任を持って歩んでいくアスリートがこの先も増えていくことを期待しています。
(まとめ:高島三幸=ライター)

[日経Gooday2019年6月11日付記事を再構成]