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有森裕子 「幸せにならなきゃ」プロ目指し走り続けた

日経Gooday

2019/7/14

写真はイメージ=(c)mihtiander-123RF
日経Gooday(グッデイ)

今回は、アスリートが自ら勝ち得た成果を糧に、自由に活動していくことについて…具体的には、アマチュア選手の「プロ化」についてお話ししたいと思います。

■「強くなった選手は、みんな幸せにならなきゃ」

前回記事「有森裕子 頑固な私と共に歩んでくれた恩師・小出監督」で、亡くなられた小出義雄監督との思い出を語りましたが、監督が生前、私や高橋尚子さんといった教え子たちによく話してくれたことの中に、こんな言葉がありました。

「強くなった選手は、みんな幸せにならなきゃ」

それはつまり、「(オリンピックでメダルが取れるくらい)強くなった選手は、それで食べていけるようにならなきゃ。だからお前もがんばれよ」という意味合いだったように思います。

小出監督が当時、「プロ化」を念頭に置いてお話しされていたかどうかは定かではありません。監督から「プロになれ」と言われたこともありません。でも、アスリートが血のにじむような努力を重ねて強くなったら、その成果に見合う十分な対価を得て生活できるようになる未来を、一緒に夢見てくださったように思います。

今でこそ、体操の内村航平選手や、マラソンの川内優輝選手など、アマチュア選手が「プロ宣言」をすることは珍しくなくなりました。しかし、私が現役の頃は、そうした選手は誰ひとりとしていませんでした。ロールモデルがいない中で私は、五輪メダリストとして初めてプロ宣言したアスリートになったのです。今から23年ほど前の1996年12月のことでした。

■もう一度メダルを取って、自分の進む道は自分で選びたい

1992年8月、バルセロナ五輪女子マラソンで銀メダルを獲得し、記者会見する有森裕子選手(右)と故・小出義雄監督=共同

1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した後、私は大きな苦しみの中にいました。さらに上を目指して前進したいという自分の気持ちと、周囲の方向性にズレが生じ、思い通りにいかないことが続きました。いら立ち、悩み、苦しい思いを嫌というほど味わいました。

そんな泥沼のような状態から抜け出すため、私は次のアトランタ五輪(1996年)ではなんとしてももう一度メダルを取りたいと思いました。何かを発言する際、メダルを持っているのと持っていないのとでは、周囲の反応に天と地ほどの差があります。2大会連続でメダルを獲得すれば、自分のやりたいことができる。自分の意思で道が切り開ける――そう信じ、突き進んだのです。メダルさえ取れれば、色は何色でもいいと思っていました。

そうして迎えたアトランタ五輪で、銅メダルを獲得。その直後から、私はプロ転向について真剣に考え始めました。きっかけとなったのは、アスリートの肖像権の問題です。アトランタからの帰国後すぐに、私の元にはポスターやCMなどへの出演依頼が次々と舞い込みました。ところが当時、日本オリンピック委員会(JOC)と日本陸上競技連盟は、それを認めてくれませんでした。そこで初めて、JOCの加盟競技団体の登録選手の肖像権は、JOCが一括管理していることを知ったのです。

■「私の肖像権を返してください

JOCがこうした方針をとるのは、「がんばれ! ニッポン! キャンペーン」(当時)の協賛企業の広告に登録選手を起用してもらうことで、企業から協賛金をもらい、その一部を強化費として競技団体に分配するためでした。しかし、選手に入ってくるお金はそのさらにほんの一部で、協賛企業以外の企業の広告への出演は認められていませんでした。

私は納得できませんでした。バルセロナ五輪の銀メダルと、アトランタ五輪の銅メダル。2つのメダルを手にして、これから走ることを生業にしたいと思っていたのに、肖像権を管理されてしまったら身動きができず、活動も制限されてしまいます。同じ社会の中で生きている他の職業の人は、自分の価値を評価してもらい、正当な対価を得ているのに、ジャンルがスポーツというだけで、なぜアスリートは自由を制限され、生きるための選択肢をもらえないのかと、強い憤りを覚えました。

「自分の肖像権は自分で管理するので、返してください」。私はそうJOCに訴えました。しかし、私の訴えはまったく聞き入れてもらえません。「これはさまざまな競技団体に所属するアスリートの強化費を稼ぐための大事なキャンペーンです」「納得できないのであれば、引退してタレントになればいいのでは?」と言われ、なぜ自分が唯一食べていける「走る」という手段を手放さなければいけないのかと、悲しい気持ちになりました。

平行線が続く話し合いにしびれを切らした私は、「とにかく私は『がんばれ! ニッポン! キャンペーン』からは外れます。強化選手にならなくていいので、個人でお金を稼いで走ります」と事実上のプロ宣言をし、1996年12月に所属先のリクルートを退社して同社と業務委託契約を結びました。そして、JOCを通さずにCMなどに出演したのです。

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