強烈キャラ茂造、実は苦労人 吉本新喜劇の復活に一役辻本茂雄さん、座長時代の28年を語る

1964年10月8日、大阪府阪南市生まれ。和歌山県立和歌山北高校卒。86年にNSC入学。漫才コンビ「三角公園」解散後の89年に吉本新喜劇入団。「バラエティー生活笑百科」(NHK)などに定期的に出演。「32周年特別公演 辻本新喜劇 inなんばグランド花月7DAYS」は7月31日~8月6日
1964年10月8日、大阪府阪南市生まれ。和歌山県立和歌山北高校卒。86年にNSC入学。漫才コンビ「三角公園」解散後の89年に吉本新喜劇入団。「バラエティー生活笑百科」(NHK)などに定期的に出演。「32周年特別公演 辻本新喜劇 inなんばグランド花月7DAYS」は7月31日~8月6日

3月に60周年を迎えた、関西のお笑いを代表する吉本新喜劇。辻本茂雄さん(54)は長年務めた「座長」を2月で勇退した。人気キャラ「茂造」を確立、1980年代に低迷した新喜劇を復活させた功労者の一人だが、喜劇人としての歩みは平たんではなかった。

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「『座長』に就任したのは1999年なので『20年間ご苦労様でした』と言われますが、実はもっと長いんです。95年には内場勝則さん、石田靖さんと『ニューリーダー』に就きました。さらに遡って91年、27歳ごろでしたか、座長を務めることもありました。人気再生を図る「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を受けて今田耕司さん、東野幸治さんらが座長に起用され、2人が抜けた後は私たちも任されるようになりました。呼び名はころころ変わっても任務は同じですから、足掛け28年になるんです。この間一緒に務め上げたのは内場さんだけ。勇退直前になんばグランド花月で2人が座長を務めた公演では、内場さんが『アホボン』、私が白と黒の格子柄のスーツを着たこわもて役と往年の人気キャラでお互いゲスト出演し、労をねぎらいました」

吉本新喜劇の座長は台本作成から配役など幅広い業務を担うだけでなく、集客力も責任を負う。

「長年務められたのは目標を持って走ってきたからでしょうか。中学生のときに中野浩一さんに憧れて競輪選手になろうと決め、自転車競技部のある和歌山北高校に進みました。ところが、家業のうどん店で使う鉢を買いに行った母を迎えに行き交通事故に遭いました。ケガは軽く済みましたが、右足に腫瘍が見つかり手術。1年程度リハビリして検査したら今度は左足に腫瘍が見つかり、医師からは『競技用自転車のペダルはこげない』と言われました」

「夢が破れてアルバイトをしていたとき、母の買い物に付き添い、なんば近くの千日前道具屋筋商店街を訪れました。まだ、なんばグランド花月が建設中で、吉本総合芸能学院(NSC)5期生募集のポスターを見つけました。ダウンタウンさんの活躍がニュースで取り上げられていたころで、お笑いの世界にかけてみようと入学しました」

自転車からお笑いに転じたものの、下積み時代は苦労が絶えなかった。
辻本茂雄さん演じる「茂造」の出世作となった「眠れない男」の一場面(C)吉本興業

「稽古場不足で5期生はすぐ解散に追い込まれました。今も残っているのは漫才コンビ、ティーアップの前田勝君ぐらいです。その後『三角公園』というコンビで活動していましたが、相方が引退したため、89年に新喜劇に入りました」

「当初はネタを少し見せてすぐにはける(退出する)チョイ役ばかり。出番のない週は3回ほど客席の後ろから見学し、笑いの取り方や日々修正される芝居の展開などを徹底的に学びました。ぼちぼち出番やセリフが増え、顔の特徴から『あご本さん?』『辻本や!』といじられキャラになりました。でも、内場さんや石田さんは既に舞台を切り回す主役級を演じていました。負けてはいられないとプロデューサーに『あごネタやめます!』と申し出たら、『あごネタ取ったら何が残んねん!』と言われ、3カ月ほど出番がなくなってしまいました」

そんなとき救いの手が現れる。「かいーの」などのギャグで一世を風靡した間寛平さんだ。新喜劇を代表するキャラ「茂造」も人気を獲得するまでには苦労続きだった。

「寛平兄さんの地方営業で主役級の方が急きょ出られなくなり、空いている私にお鉢が回ってきました。張り切って出演者にツッコミを入れまくっていたら、寛平兄さんに色んなところで『辻本のツッコミはオモロイで!』と広めていただいたおかげで、仕事が増えるようになりました。最大の恩人です」

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