スケーターから庭師へ 五輪の悔しさを癒やした転身スピードスケート、大津広美(3)

当時の学校関係者は、新入生がトップスケーターだったキャリアや、ましてメダルにも手をかけるレベルの五輪選手だとは知らなかった。正確には、知らないのではなく、あえて知ろうとはせず、本人を問い詰めたりはしなかったのだろう。

「とても口数の少ない方でした。前にいた富士急の練習場も、ここ(職芸学院)と同じように緑がいっぱいで、その中をいつもランニングしていたんです、懐かしいなぁ、と話していたのを覚えています」

関係者の一人は当時を思い出し、今回の取材で初めて、キャリアの詳細、トリノ五輪でのアクシデントがつながったのだと明かす。

庭師として働き始めたころ

翌日の朝練を逆算して出掛ける必要はなく、休日には心ゆくまで映画を見て、好きだった山歩きや、富山周辺のゲレンデでスキーを楽しむ。そんな「贅沢な時間」はパートナーとの出会いをももたらしてくれた。同じ専門学校で9歳上の学生と知り合い、冬山歩きやスキーに出掛けるようになる。卒業後、彼の故郷である仙台市に移り住み13年に結婚。念願だった庭師として、市内にある「泉緑化」での仕事をスタートさせた。

被災地で知る植物の力

しかし、引退から3年でかなえたセカンドキャリアは、想像もしていなかったがれきの撤去から始まった。11年の東日本大震災後、泉緑化・鎌田秀夫社長が地元の復興を願い「植栽で復興を支えよう」と、津波で被害を受けた沿岸部を中心にボランティア活動を行っており、大津も被害の大きかった石巻をはじめ各地でボランティア活動に参加した。

散乱するガレキをひとつずつ取り除いて、津波をかぶった場所をならして土を入れて花壇を作る。小さな花株をひとつ植えるのも大変な仕事だったが、多くを教えられた。まだ、片付けもままならない場所に花壇が作られると、足を止めて「キレイだねえ」と声をかけてくれる人々がいる。植物の力だった。

その後も、植栽のデザインを行い、時にはクレーンを扱うなど仕事の内容は多岐に渡った。スピードスケートのトップ選手だった頃とは何も関係がない仕事のように見えたが、実際には大きな共通点がひとつあった。忍耐力だ。泉緑化の鎌田社長は、社員としての大津を見守っていた。

「もちろんデザインなどセンスはありますが、それは教えられて学んでいくものです。何よりも重要なのは、長時間の仕事にも耐えられる体力や根性です。彼女はいつでも黙々と仕事をこなし、決して弱音を吐いたり、中途半端に終わらせたりしませんでしたね。やっぱりトップ選手は違うんだな、と感じると同時に、自分のペースを持っているので激しい競争などは、本当はあまり得意でなかったんだろうか、などと考えていました」

年間を通じて担当した住宅展示場の庭園管理は「やりがいがあった」(2016年5月ごろ、仙台市)

「東北の園芸文化を大事にしたい」と、今も復興活動を支援する社長は、いつか、園芸の仕事に戻って来てほしいと優しく声をかけた。

多くの仕事を手掛けるなか、もっとも好きなのは、それぞれが強くたくましく、個性的に成長する雑木林だと大津はいう。

腰を痛めたのもあり庭師を離れ、就職を探していた時、障害者のスポーツ支援を行う指導員の募集をハローワークで見付け履歴書を書いた。トップ選手の育成だけではなく、地域に根差し、幅広い競技を、それぞれ違う障害を抱えた人々に楽しんでもらう仕事だ。庭師とは違うようで、個性や力強さがそれぞれに存在し輝きを放つ社会をつくる点で、雑木林を育てるのに似ているのだろうか。

7月上旬に新しい家族が加わるのを待ちわびる今、不思議な感覚を抱いている。引退以降、取材は受けず、親しい友人や職場、家族にもスケートのキャリアについては話してこなかった。しかし今回の取材は、改めて自分を振り返るきっかけとなったという。元号が変わり、母親になる。初めて当時を振り返り、色々な思いを整理し、また新しい生活が始まる。子どもがいつか、五輪選手だった母の過去を知る日も来る。

「だから、岡崎先輩がかけてくれた言葉は本当だったんですね。あの時転倒して記憶に残れたからこそ、こうした節目で機会を頂けたんですから」

トリノで転倒しメダルを逃した直後、富士急の先輩・岡崎朋美は慰める周囲とは全く違う言葉をかけてくれた。

「記憶に残る選手になれてよかったね」

その特別な言葉の意味もまた、13年もの月日をかけて改めて考えられた。オリンピックは目標の終着点ではなく、新たな目標の始まりなのかもしれない。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

大津広美
1984年、北海道更別村生まれ。清水宏保氏(長野五輪で金メダル)らを輩出したスピードスケートの強豪、白樺学園高校で頭角を現し、2年生からワールドカップ(W杯)に出場する。2003年、富士急へ。06年トリノ五輪では1500メートルと団体追い抜き(チームパシュート)で出場を果たす。団体追い抜きは3位決定戦で転倒し、メダルを逃した。アクシデントを引きずり、1500メートルは2分4秒77で33位に終わった。06年、08年の全日本距離別選手権では3000メートルで優勝。09年世界距離別選手権では団体追い抜きのメンバーとして3位に。だが10年のバンクーバー五輪には出場できず、同年引退。自己ベストは1500メートル1分56秒93、3000メートル4分5秒71、5000メートル7分11秒29(いずれも国内歴代20位以内)。引退後は富山で専門学校に通い、庭師になった。私生活では13年に結婚し、現姓は中野。現在、仙台市障害者スポーツ協会に勤め、障害者にスポーツを教えている。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

「未完のレース」ではこれまで競泳の千葉すずさん、柔道の篠原信一さん、マラソンの土佐礼子さんを取り上げています。こちらも併せてお読みください。