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キャリアの原点

家業「のりたま」継いだ銀行エリート 20年で組織一新 丸美屋食品工業 阿部豊太郎社長(下)

2019/6/18

――当時としては、かなりのエリートコースだったのでは?

「どうでしょうか。金融機関が国際化していく勃興期でしたから。ニューヨーク支店といっても、現地のスタッフはいましたけれど、日本人はまだ数人しかいないような時代でした。だから、まあ、勉強してこいという感じだったんでしょう。貸付先としては当時、海外に出ていた日本企業の現地法人。それも、当初はまだそれほど多くはありませんでした」

「それからニューヨークの場合、アルゼンチンの政府やブラジルの石油公社などを対象に、アメリカの銀行などがリーダーになり、シンジケートローンを組んで貸し出す。そこに相乗りをするような仕事が多かったですね」

「ニューヨークには5年ちょっといて、日本には1回ぐらいしか帰らなかったと思います。84年2月に父が亡くなるわけですが、その1年ほど前からしきりとニューヨークに電話をかけてくるようになりました。『帰ってきたければ来てもいい』ぐらいの感じで、丸美屋に入社してほしいと、はっきりは言わなかったですね。ただ、その時だったか、別の時だったか、『戻って来るなら、銀行で部長くらい経験してからのほうがいい』というようなことを言われたことはあります」

――入社する決断をしたのは?

「それは父が亡くなり、葬式のために帰国したときですね。私は上に姉が3人おりまして、4人きょうだいの末っ子で長男。きょうだいから『どうするんだ?』と聞かれて、決断しました。ただし、銀行の人事の問題もありましたから、そこから約1年間はニューヨークにいて、その後、丸美屋に入社しました」

丸美屋では営業の見習いからキャリアが始まった

「最初の1年間は営業の見習いです。当時は営業が一番の肝でしたから。年齢もまだ若かったですし、こっちが教えてもらう立場ですから、いろんな人の話をあまり偉そうにしないで聞かないといけないなと思ったのは覚えています。初代の社長が私の父親で、亡くなる少し前に義理の兄が社長をやりまして、その後、従兄弟が社長をしています。私が社長になったのはその後です」

――銀行の仕事とは扱う額も違ったのでは?

「それはもう全然違いますね。スーパーで安売りなどをする場合、安くした分を販売促進費と称してメーカーが持つわけですが、それなどは何十銭単位ですから。ニューヨークにいた時は何百万ドルという単位の話ですから、桁が全く違います。それと、我々が扱っているのは身近な食料品ですから、売れるか売れないか、売り上げがいくらか、はすぐに把握しないといけない。金額だけではなく、商売の現実感覚という意味でもかなり違いました」

「ただし、組織という意味では銀行と一緒です。15年間、よその飯を食ってきたからこそわかったこともあります。社内ではあまり言っていませんが、会議の名称や稟議書の作り方など、銀行のやり方を真似たケースも、いくつかあるんです。20年以上かけて、経理以外、ほとんどの組織を変えました。会議も随分と変えました」

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