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丸美屋食品工業の阿部豊太郎社長は旧長銀に15年間勤めた

丸美屋食品工業の阿部豊太郎社長は旧長銀に15年間勤めた

競合ひしめく食品業界で生き残る道は「強いものをより強くすることだ」と、丸美屋食品工業の阿部豊太郎社長は語る。ブランド力を強化しながら次世代の商品群育成にも取り組み、平成の30年間で売上高を3倍近くに伸ばした。成長に導くうえでは、銀行員時代の経験が生きたという。

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――社長自身のキャリアの原点は?

「それは銀行に勤めたことですね。1970年、東京大学経済学部を卒業し、当時の日本長期信用銀行(長銀)に入行。そこで15年間、勤めました。大学で経済なんかやっていますと、当時は銀行に行く連中が多かった。銀行というのは手広く取引関係がありますし、世の中全体を見られるということで人気もありました」

「数ある金融機関のなかで、都市銀行ではなく長銀を選んだのは、市場調査や産業調査に定評があったので、じっくり腰を据えてものごとを考えられるかなと思ったことと、最初に決まったのが長銀だったんです。だったらもう、『ここでいいや』と決めました」

――どんな学生時代を過ごしましたか?

「ごく普通の学生でした。学生時代の後半はちょうど東大紛争の終わりごろで、授業も休講が多くて、麻雀をしたり、遊んだりしていた記憶しかありません」

――長銀ではどんな仕事を?

「最初は大阪支店の企画部門に配属され、大阪の経済や金融市場の情報を集めて分析しました。といっても新入社員ですから、大したことはできません。先輩について勉強していたという感じです」

「都市銀行に入ると、大抵は預金集めから始まりますが、長銀の場合、金融債を発行して、地方銀行や証券会社、生命保険、信用金庫などに買ってもらい、それを原資に5年、10年の単位で融資する。ちょうど国際化、情報化などの議論も始まった時期で、そういう先をにらんだ意味での情報集めも多かったです」

「子供のうちは親父の会社を継ぐんだなどと言っていたこともありますが、銀行に入ったのは自分の意思です。継ぐつもりはほとんどなかった。79年から85年まではニューヨーク支店にいました。親父もまさか私がニューヨークに行くことになるとは思ってもいなかったでしょう」

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