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未完のレース

五輪で転倒、落胆救ってくれた 岡崎朋美さんの言葉 スピードスケート、大津広美(2)

2019/6/12

「良かったねぇ、目立って……」

岡崎はそう言った。

「オリンピックで記憶に残る選手になれて良かったね、と声をかけてくださったんですね。1人の責任じゃない、出場し4位に入ったのもたいした成績……色々な言葉をかけてもらいましたが、先輩は全く違いました。やはりオリンピックでメダルを取れる選手というのは、考え方が違うんだ、さすがだな、と改めて先輩の言葉に感心してしまって……今も思い出します」

大津は懐かしそうに「センパイ」と繰り返し笑った。

岡崎朋美(2017年12月撮影)

岡崎は4度目の五輪出場となったトリノで日本選手団の主将を務める重責を負い、風邪に苦しみながら500メートルで4位に入った。初出場で厳しい結果に直面した後輩に対し、もちろん不用意に何かを言うはずはない。

「確かにメダルは逃しましたが、それもオリンピックならではなんです。ベストは尽くしましたし、五輪のアクシデントを責めるのはおかしな話です。だから、記憶に残る選手になれて良かったね、と言ったと思います。帰国して落ち着いた頃には改めて、終わったことは仕方がない。前を向いて次につなげよう、と伝えています」

岡崎は13年前の出来事を鮮明に思い出し、取材にそう答える。

4年に一度味わう喜び以上に、そこに隠れる魔物の姿を知り尽くしているからかけられた、心に染みる言葉だった。

トリノから転戦したW杯で大津は活躍した。1500メートル、3000メートルとも好成績を収め「パシュートの借りは五輪で」と、次のバンクーバー五輪を目指す強い意欲も湧き始める。五輪シーズンが終わり、北海道・更別村(十勝地方)に五輪報告会も兼ねて帰郷する。地元のスケート少年団に、小学校の児童のうち約半分が所属するほどのスケートの村は、ヒロインを温かく迎え、子どもたちは小さな村から誕生した五輪選手に目を輝かせた。

そこに、トリノ五輪を父親と一緒にパブリックビューイングで観戦していた、スケート少年団の女の子がいた。当時小学校4年生。自分たちの小さな村の、しかも同じ少年団出身者が大舞台で堂々と滑っていた様子に強い憧れを抱いた。報告会で、その女の子と少しだけ言葉を交わしたが、その時、夢をつなぐ小さな「種」がまかれたことに大津が気付くのは、ずっと後になってからだ。

バンクーバーへのトレーニングは始まり、順調に進んでいた。五輪の中間年にあたる08年には全日本距離別選手権3000メートルで優勝。09年の世界選手権で、パシュートのメンバーとして銅メダルを獲得する。

「五輪の借りは五輪で返す」。本人も強くそう願ってきたはずが、順調に見える結果はどこかで重圧になっていたのかもしれない。代表選考を考えるとどうしても守りに入ってしまい、思い切ったチャレンジができなくなる。真面目な性格ゆえ、リフレッシュをしながら競技にメリハリをつけるのは苦手だった。

「精神的な面も含めて、自分の力不足は否めませんでした。バンクーバーが現実的になり始めた2年前頃から、五輪を狙ってレベルをあげなきゃ、転倒を取り返すためにも頑張ろうと気持ちばかり先行していたようで、心と体のバランスがとれなくなりました」

■心の葛藤、山歩きに救われる

21歳では「まだ若いんだから、次も十分チャンスはある」と考えられた。しかし五輪よりも、その前に立ちはだかる4年の壁とは選手にとって想像以上に手ごわいものである。葛藤が続いたこの頃、1人で山歩きをしている時間に救われた。

トリノ五輪からバンクーバー五輪までの4年間を振り返る大津

当時、足腰の強化に山歩きを取り入れ、富士急のリンクがある地元山梨・富士五湖や身延山に足を伸ばした。いつの頃からか、足腰の強化以上に、森林にいると心が落ち着き、癒やされるように感じられた。土や植物にひかれ、この頃から、将来は植物を扱う仕事に就いてみたい、とぼんやり考えるようになった。調べていると「庭師」という専門職があると分かった。

09年12月、バンクーバー五輪日本代表選考会が長野のエムウェーブで始まる。

緊張やプレッシャー、様々な感情を抱えきれず、前夜は眠れなかった。中学生の高木美帆(当時札内中)が新星のごとくトップに立って話題をさらった1500メートル、大津は2分2秒97で8位に終わり、3000メートルは5位に入ったが五輪には届かなかった。この時引退を決意する。

「いざ選考会となると、どこかで逃げていたんでしょうね。私にとって転倒以上に、4年後の五輪に行けなかった事実が辛いものでした。スケート人生には悔いが残りましたが、一方では、そこまでの選手だった、と自分の限界を悟り、競技に見切りをつける結果になりました」

10年1月、03年以来所属し世界を目指してきた富士急を辞め、2カ月後、富山にある庭師の専門学校「職芸学院」に入学する。恵まれた環境下で、常に最高の準備を約束してもらい、スケートに集中した日々に感謝しながら、どこかで普通の社会人としては取り残されているような焦燥感があった。あえて見知らぬ土地を選んだのもそうした独立心と、アルプスを抱く富山なら、山歩きも楽しめそうだと考えたから。

造園、ガーデニングを学ぶ2年の過程で、戸惑いながらも社会人として一歩、一歩進む充実感を味わう。メダル目前の転倒と、2度目の五輪に出場できなかった悔しさは、庭師を目指しながらゆっくりと心の中でろ過されていった。

周囲にはオリンピックの話も、トップスケーターだった経歴も話さず過ごせた。植物と土にまみれる毎日に、氷は特に必要がなかったからだ。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

大津広美
1984年、北海道更別村生まれ。清水宏保氏(長野五輪で金メダル)らを輩出したスピードスケートの強豪、白樺学園高校で頭角を現し、2年生からワールドカップ(W杯)に出場する。2003年、富士急へ。06年トリノ五輪では1500メートルと団体追い抜き(チームパシュート)で出場を果たす。団体追い抜きは3位決定戦で転倒し、メダルを逃した。アクシデントを引きずり、1500メートルは2分4秒77で33位に終わった。06年、08年の全日本距離別選手権では3000メートルで優勝。09年世界距離別選手権では団体追い抜きのメンバーとして3位に。だが10年のバンクーバー五輪には出場できず、同年引退。自己ベストは1500メートル1分56秒93、3000メートル4分5秒71、5000メートル7分11秒29(いずれも国内歴代20位以内)。引退後は富山で専門学校に通い、庭師になった。私生活では13年に結婚し、現姓は中野。現在、仙台市障害者スポーツ協会に勤め、障害者にスポーツを教えている。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

「未完のレース」ではこれまで競泳の千葉すずさん、柔道の篠原信一さん、マラソンの土佐礼子さんを取り上げています。こちらも併せてお読みください。

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