歌人・国文学者の家系に生まれ育った幸綱さんだが、成蹊学園(東京都武蔵野市)の中高時代はラグビー部とバスケットボール部の双方に所属するスポーツマンだった。ラグビーは、早稲田大学時代に本格的に始めた歌作でも大切なモチーフとなった。「ジャージーの汗滲(し)むボール横抱きに吾(われ)駆けぬけよ吾の男よ」(第一歌集『群黎(ぐんれい)』)は中学の教科書にも採用された名歌。「男歌」とも評される作風の「恋歌の中にラグビーが出てくる」。
――成蹊でラグビーを始めたきっかけは。
「僕はもともとバスケットボールをやってたんですね。『だったらハンドリングがいいだろう、一緒にラグビーしないか』と周りに言われて、割とすんなり。それが中学の終わりくらい。結局、中高は両方やって、冬はほとんどラグビーでした」
――どんなプレーヤーでしたか。
「本当はバックロー(スクラム最後列で機動力のあるフォワード選手)をやりたい気持ちがありましたけど、ずっとバックスの(背番号)13番、右のセンターでした。割と要領がよくて、スクラム周辺で相手に出たボールを素早く奪いに行くとか、バックローみたいなプレーをやっていましたね。タックルも好きでしたよ。ずいぶん練習させられたから。でかいやつが相手だと怖いときもありました」
「ステップも割と上手でね。かなり複雑に入り組んだフォーメーションを編み出したり、(味方が交差する)シザースパスなんて当時は珍しいプレーをやったり。それでも東京都は保善高校と法政一高(現法政高校)が強くて花園(高校ラグビーの全国大会)には出られなかった。甲南高校(兵庫県芦屋市)とは毎年定期戦があって、新幹線がない時代に初めて大阪に行った思い出があります」
楕円球、ドラマが隠されている
――ラグビーのどこに魅力を感じていましたか。
「やっぱり体と体がぶつかり合う楽しさみたいなものがあった。学校は男ばっかりのクラスで、雨の日は今じゃ考えられないくらい教室で暴れたりね。そういう時代とクラスでしたから、休み時間に相撲をとることがはやっていたくらいです」
「楕円球というのも面白いですよね。相手選手と競争しながら追っかけて、その先に(どちらに弾むかわからない)ドラマみたいなものが隠されている、そういう感じがしましたよね」
――成蹊で国語を教えていた俳人の中村草田男さんにはラグビーの句もあります。練習を眺めていたのでは。
「当時は学校の敷地に(教員用の)住まいがあったんじゃなかったかな。グラウンドではラグビー部がいつも練習していましたから。草田男はね、いつも刑事コロンボみたいな汚いレインコートを着ている方だった。国語は中学のときから習いました」