俳優・国広富之さん 「役者」知る父、見えない支えに
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の国広富之さんだ。
――お父様も映画やドラマと縁が深かったとか。
「京都で制作の仕事をしていました。何本も作品を掛け持ちし、家にはほとんどいなかった。たまにいるなあと思うと、雨でロケが中止になったとき。普段見かけないおじさんたちが十数人も集まってマージャンしているんです。大声で騒ぐのが何だか怖かったのを覚えています」
「もちろん華やかな世界を垣間見る機会もありました。チャイムが鳴って玄関のドアを開けると、きれいな女優さんがお中元やお歳暮を携えて立っていて、僕が口を開けてポカンとするといったテレビCMのような場面もよくありました。そんな環境が僕に役者の道への興味を持たせたのかもしれません」
――お父様の性格は。
「一言で九州男児。佐賀で刀鍛冶をしていた家の出身で京都に出てきたと聞いています。商売柄、人当たりは良かったけれど怖い存在でした。僕を褒めることも全くない。いじめられて泣いて帰ると、『やり返してこい』と。僕も大人になって厳しくしつける大切さは分かるようになりましたが、父を反面教師に考えることの方が多いですね。そのためか子育ては必要以上に甘くなってしまって……」
――お母様は。
「とにかく優しくてね。女学校を出てお花もお茶も学んで、どこに出しても恥ずかしくないように育てられたそうです。僕が困っていると常にかばってくれて、叱る時も京都弁で『○○したらあかんえ』って調子で。母がつくってくれるゆり根の卵とじや、かす汁は僕の大好物。何があっても母だけは泣かすまいと考えて生きてきました」
――俳優を目指すと打ち明けたときの反応は。
「大学時代にエキストラのアルバイトに明け暮れていた僕は、卒業の1年ほど前に『どうしても役者をやりたい』と相談しました。最初、父は反対。俳優を身近で多く見ていて、給料も何もかも知っていたからでしょう。『食っていけないぞ』って。最後は『まあ2~3年やってみたら』と折れてくれましたけどね」
「母は役者の世界がよく分からないからか何も言いませんでしたが、心配していたと思います。それでもデビューしてからは一番のファンとして応援してくれました。父も僕のマネジメント会社をつくって、仕事を整理したり上京したり。経営のセンスはともかく、喜んでやってくれているようでした」
――親孝行できましたか。
「両親が亡くなるまで俳優を続けてこられたことかな。父には『おまえは運のいい男だ』と言われました。確かに僕は楽天的な性格で、デビューから役にも恵まれました。これまで自分を信じて突っ走ってきたつもりですが、結局はそんな僕を支えてくれていたんでしょうね」
[日本経済新聞夕刊2019年6月4日付]
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