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有森裕子 頑固な私と共に歩んでくれた恩師・小出監督

マラソン指導者・小出義雄監督の逝去によせて

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NIKKEI STYLE

日経Gooday(グッデイ)

2019年4月24日、平成という時代の終わりとともに、恩師・小出義雄監督が80歳でこの世を去りました。心からご冥福をお祈りいたします。

「俺はもう逝くからよ」

2015年、米国・ボルダ―での合宿中に不整脈による心疾患で倒れて緊急手術を受けたり、入退院を繰り返したりと、小出監督の体調が思わしくないことは前々から知っていました。

そんななか、私が解説者として参加した2019年3月10日の名古屋ウィメンズマラソンで、Q(2000年シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんを私はこう呼んでいます)らと一緒にインタビュールームにいたときに、突然、小出監督が部屋に入ってくるといううれしいサプライズがありました。

皆ビックリして「監督、いらっしゃったんですね!」と言うと、監督は「来たよ」と笑顔で答え、30分ほど元気に雑談をしてくださいました。皆で記念撮影もして、楽しいひとときを過ごしました。

そんな思いがけない再会から3週間ほどたった3月30日、私の携帯電話に、めったにない小出監督からの着信がありました。折り返し電話をかけると、「おお、つながったか。俺はもう逝くからよ」と突然おっしゃるのです。

私が驚いて「何を言ってるんですか!」と言うと、「逝くよ。もうダメなんだよ」と…。

私は半泣きになりながら、少しの間、監督と思い出話をしましたが、「じゃあ、もう疲れたから逝くな」と言って、監督は電話を切ってしまいました。あわてて関係者に連絡をとると、どうやらほかの教え子たちにも同じような電話をされていたとのことでした。

その翌日、私は仕事が終わってすぐ、小出監督が入院されている病院に向かいました。Qやピロ(1997年世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美さんの愛称です)らと一緒に会いに行ったのですが、ベッドに横たわる監督は思っていたよりは元気なご様子でした。でも「元気だけど、話すと疲れるんだよ」とおっしゃる。「監督の誕生日は4月15日だから、そこまでがんばりましょうよ」と励ましたのですが、「この状態で持つかなぁ」とおっしゃっていたことを覚えています。

その後、監督はICU(集中治療室)に入られてからもがんばって、4月15日の誕生日を迎えることができました。しかしその後、容態がさらに厳しいという話を耳にし、ついに24日朝、ご家族から悲しい知らせをいただきました。

監督が電話をかけてくださったおかげで、最期に会えて話すことができていたので、ある程度は心の整理はできていました。でもやはり、監督がこの世を去ってしまったという現実に直面したときは、涙が止まりませんでした。

押しかけ入部で監督を困らせたリクルート時代

1992年バルセロナ五輪(銀メダル)、1996年アトランタ五輪(銅メダル)と、2度のオリンピックの女子マラソンでメダル獲得へと私を導いてくださった小出監督との出会いは、所属先であったリクルートの陸上部でした。

日本体育大学時代、陸上選手として芽が出なかった私は、卒業後は教職を目指していました。ところが、急遽出場した大会で思いがけず好タイムを出して優勝したことで、国体や五輪に出場したいという思いが膨らみ、実業団に進路を変更したのです。

そこで、当時、設立から日が浅かったリクルートの陸上部に入りたいと、指導者を務めていた小出監督に入部を希望する手紙を送りました。小出監督の実績や人となりもよく知らないまま、リクルートに入りたい一心で直訴したのです。1988年の秋のことでした。

面識のない、無名の選手からの突然のお願いですから、案の定、最初は断られました。800mを走らせても中学生のトップランナーより遅かった私は、確実に他の選手たちの足手まといになるだろうと監督は考えたそうですが、無理もありません。

しかし私はあきらめきれず、合宿所まで押しかけて直談判を続けました。監督はさぞかし困ったと思いますが、最終的には私のやる気を買って、入部を認めてくださいました。後で聞いたところ、「ダメだったら、マネージャーにすればいいか」と思われていたようです(笑)。

スピードがなく、他の選手についていけない私に、監督は、「何時間かかってもいいから、出したメニューは全部こなせ」と指示しました。私はそう言われたことがうれしくて、どんなに時間がかかっても、監督のメニューはすべてこなしました。それができたのは、「リクルートという実業団で、小出監督の下で走ると決めたのは自分なのだから、自分の行動には責任を持とう」と決意していたからです。

夢だけは大きく、ランナーとしての素質はなかった私でしたが、監督は「そんな選手が大きな目標を達成するためには、常識にとらわれた練習法ではダメだ」とおっしゃいました。朝、15km走った後に、50kmを走るといった凄まじい量の練習でしたが、必死にくらいつき、練習量では誰にも負けていないという自信をつけることができました。

練習方針をめぐって衝突したことも

1万メートルのトラック競技からマラソンに転向し、本格的にマラソン練習を始めてからは、出されたメニューをただこなすのではなく、「何を意識して走ればいいのか」といったトレーニングの意味も監督に聞くようになりました。小出監督は私が納得しないと練習に取り組めない気質だと分かっていたので、丁寧に説明してくれました。

練習に対して生真面目で頑固だった私は、監督と衝突することもありました。監督はお酒の席で、「高橋はこんな選手だった」「鈴木はあんな選手だった」と、それぞれの選手との思い出をよく話すようでしたが、私については、そうしたケンカのエピソードも冗談交じりに披露していたようです(苦笑)。

特に覚えているのは、1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した後のことです。同大会で金メダルを獲得したロサ・モタ選手のように力強く走れるようになりたいと思った私は、帰国後、初動負荷のウエイトトレーニング[注1]を始めました。

当時、小出監督は3カ月ほど現場から離れていたのですが、チームに帰ってきたら、私が勝手に自分のポリシーに反するトレーニングをやっているものですから、怒り出してしまい…。私は自分の考えを伝えて話し合おうとしましたが、どちらも主張を曲げず、平行線のまま言い合いになってしまいました。ムキになった私は思わず「監督、(ウエイトトレーニングについて)もっと勉強してください!」と火に油を注ぐようなことを言ってしまったのです。それから監督は、「あいつはな、俺に『もっと勉強してください』と言ったんだよ!」と周囲に話すようになったそうです(笑)。

こうしたエピソードに代表されるように、私は、自分の意見をはっきり言っては、小出監督の手を煩わせていた選手だったように思います。ピロにとって小出監督は高校時代の恩師でしたし、Qはリクルートが強豪チームに育った後(1995年)に入ってきて、小出監督が移籍した際は自分もチームを移るほど、監督を慕っていた選手です。それぞれ、監督とつながった背景が異なり、能力も、性格も、活躍した時代も違いますから、監督への思いもそれぞれ異なるのは自然なことです。

私にとっての小出監督は、「絶対的な師匠で、特別な存在」というよりは、「対等な関係で、同じ目標に向かって歩んでくれたコーチ」だったように思います。意見の相違でケンカすることは多かったですが、私の「五輪に出たい、メダルを取りたい」という強い思い、そして監督の「五輪選手を育てたい」という大きな目標があったからこそ、互いに割り切ることができ、メダル獲得につながったように思うのです。

データよりも指導者としての自分の目を信じる

小出監督は、なぜ女子マラソンで4人もの五輪・世界選手権メダリストを育てることができたのでしょうか[注2]。それは常にしっかりした目的意識を持ち、選手と向き合う方だったことが大きいように思います。

小出監督は、とにかく選手の練習をよく見て、脚の状態や表情まで細かく観察し、選手の言葉に耳を傾ける方でした。どんなデータがあったとしても、自分の目と耳で得たものを信じて指導されていたと思います。監督が予想したゴールタイムは、ほとんど的中していました。予想から大きく外れたのは、私のメダル獲得ぐらいではないでしょうか。

言葉巧みに選手の気持ちを高めたり、不安を和らげたりすることも監督は上手でした。練習のしすぎで五輪選考会前に足が痛くなり、焦った私に、監督はこう言ってくれました。

「物事には意味がある。どんなことが起きても"せっかく"と思いなさい。"せっかく"故障したんだから、神さまが休めと言ってくれているのだから、しっかり休もう」

こう言ってもらえて気持ちが救われ、前を向いて治療に専念できたことを今でもよく覚えています。マイナスな出来事も、考え方一つでプラスに転換できるのだと。

常に選手のことを考え、選手自身も忘れているようなタイムも覚えている、「かけっこ」が好きでたまらない小出監督。そんな方に共に歩んでいただいたこと、大きな目標を達成するために全力でサポートしてくださったことは感謝してもしきれません。本当に、小出監督と出会えたことは幸運でした。

[注1]ワールドウィングエンタープライズ代表・小山裕史氏が考案した独自のウエイトマシンを使ったトレーニング方法。筋肉を柔らかくし、関節の可動域を広げてケガを防止する効果や、瞬発力の向上などが期待できる。

[注2]もう1人のメダリストは、2003年世界陸上女子マラソン銅メダリストの千葉真子さん。

(まとめ:高島三幸=ライター)

有森裕子
元マラソンランナー。1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。

[日経Gooday2019年5月23日付記事を再構成]

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