
「ゆるキャラ」「マイブーム」の生みの親で漫画家、ミュージシャンなどとしても活躍してきたみうらじゅんさん(61)は、コピーライターの糸井重里さん(70)のことを「生涯の師匠」「唯一の上司」として尊敬している。武蔵野美大の学生だったみうらさんの非凡な才能を見いだし、世に送り出し、叱咤(しった)激励し続けてくれたのが糸井さんだったからだ。
「糸井さんがいなければ今の僕はない」「とても優しいけれど、とても怖い人」と語るみうらさんにとって、糸井さんは数々の人生の修羅場を救ってくれた恩人でもあった。一方、糸井さんは、美大生の頃から勝手に自分の事務所に入り浸っていたみうらさんを「年下の友人」と呼び、「見ぐるしいほど愛されたいヤツだった」と振り返る。
2人は互いのことをどう受け止め、どう付き合ってきたのか? 興味深い“師弟関係”をそれぞれの視点から別々に語ってもらった。今回はみうらさん、次回「糸井重里 友人・みうらじゅんから届いた涙の恩返し」は糸井さんによる単独インタビューをリレー形式でお届けする。
勝手に糸井事務所に入り浸り、オリジナル曲で売り込み
――糸井さんとの出会いは何がきっかけですか。
「きっかけは武蔵野美大で1学年上の友人の石井君です。彼がアシスタントとして糸井さんの事務所で働くことになり、『遊びに行ってもいいかな』と聞いたら、『ええんちゃう』というので、大学3年だった僕は表参道にあった糸井さんの事務所に通い始めました。大学の授業よりも事務所に顔を出す方が増えて、たまに事務所におられた糸井さんと無駄話をしたり、コーヒーやご飯をごちそうにもなったりしたので、悪いなと思い、時々、事務所のトイレ掃除まで勝手にしてました」
――糸井さんはどんな様子でしたか。
「お恥ずかしいことに、僕はコピーライターという仕事がよく分かっていなかったんです。当時は漫画を描きつつ、ミュージシャンになる夢も持っていたので、糸井さんが沢田研二さんのヒット曲となる『TOKIO』(1980年)を作詞されていると知り、『しめた』と思った。そこで中学時代からせっせと作りためたオリジナル曲を120ほど自分で吹き込んだカセットを持ち込み、糸井さんの前で流したんです」