「紙の建築」などで知られ、2014年に建築界のノーベル賞とも呼ばれる「プリツカー賞」を受けた坂さんは、かつて「ラグビーのとりこ」だった。小中高を過ごした成蹊学園(東京都武蔵野市)でラグビー部に所属し、日本代表をめざしたこともあった。高校2年の1975年1月、花園ラグビー場での全国大会にも出場。しかしその時の経験が、人生設計を変えた。
――成蹊学園ではどうしてラグビー部を選んだのでしょうか。
「当時は野球をやるか、ラグビーをやるかでしたが、ラグビーは何よりカッコいいと思ったんです。やっぱりユニホームがよかった。今も変わらない黒赤黒の3色のジャージー。パンツとソックスは黒で、すごくカッコいいですよ。成蹊は珍しく小5からラグビー部があって、伝統的に強いということもありました。中学ではキャプテンをやり、オール東京にも選ばれ、花園ラグビー場で韓国の代表チームに勝ったこともあります」
背番号7、右フランカー
――高校の全国大会に出場したときのことを。
「身長は177センチありましたが、体重は70キロくらい。フォワードとしては軽かったのですが、タックルが得意でしたからポジションは(背番号が)7番の右フランカー。ラインアウトでボールを投げ入れる役もこなしていました」
「ところが1回戦で大阪工大高(当時)に負けて(スコアは27―0)、全国とのレベルの違いを思い知らされました。それまで大学は、ラグビーが強くて、建築の分野も有名だった早稲田に行き、日本代表になれればいいなくらいに思ってたんですけど。モチベーションが少し下がったのが現実でした」
――それが進路を変えるきっかけですか。
「中学のころから建築の道に進みたいとは思っていました。受験の準備でデッサンの教室に通っているうちにそっちも面白くなって、早稲田より芸大とか美大に行きたいと考えるようにもなりました。結局はアメリカの南カリフォルニア建築大学に留学したんですけど」
――渡米後、ラグビーはされましたか。
「ロサンゼルスのラグビークラブに入ったんですけどね。アメリカはラグビーが盛んでなかったせいか、高校で一生懸命やっていたから十分にうまいと思われて、すぐ試合に出させられたんですよ。ブランクがあって体も戻ってないのに。そこでけがをして、やめてしまいましたね」
「それまで1回もけがしたことがなかったんですよ。向こうはみんな基礎がアメリカンフットボールだから、倒れると、巨大なのがどんどん上に乗ってくるんです。それで肩を壊したんですね」