ファンの「番組愛」、テレビよりラジオが大きい理由は
立川吉笑
2018年10月から半年間、文化放送『SHIBA-HAMAラジオ』のレギュラーパーソナリティーを担当した。プロ野球中継のオフシーズン限定と聞いていたから、終わりがくることは分かっていたけど、毎週同じ時間に同じ場所でしゃべることが身体になじんでいたから、終わってしまうとやっぱり寂しい。
以前から、ラジオのリスナーが番組を思う熱量はテレビに比べて大きいと聞いていた。僕自身も高校生の頃から深夜ラジオを熱心に聴いてきたから、出演者が同じでもテレビよりラジオの方がグッと親近感がわき、好きになることは身をもって知っている。
それにしても「ここまで愛着をもってくださっているのか!」と番組が終わった今でも感じることが多い。落語会が終わってお客様にあいさつをしていると「聴いていました!」「またやってください!」などと声をかけていただけることが、これまでの仕事に比べて圧倒的に多い。恐縮してしまうくらいあふれる番組愛を伝えられることも度々だ。
そんな日の帰り道、何でラジオはここまでリスナーと密な関係を築けるのか考える。大きな理由として、ラジオ(特に僕が好きな深夜ラジオ)は、テレビより出演者の本音が聞けるということがまずある。テレビ出演はよそ行きのイメージで、ラジオはリラックスして素が出ている感じ。僕が聴いてきたお笑い芸人さんの深夜ラジオは、テレビで見られないようなラフなやりとりが大きな魅力だった。
■同じ部屋にいるような親近感
イヤホンをつけて一人で聴くというのも、親近感につながる理由かもしれない。高校時代の僕は、家族が寝静まった夜中、部屋を暗くして布団に潜り込みながら聴いていた。イヤホンを使うと、同じ部屋からパーソナリティーの声が聴こえる気がしたものだ。
実家を離れ、夜更かししても母ちゃんに怒られなくなってからは、ラジオも気がねなく聴けるようになった。しかも「radiko(ラジコ)」などWEBアプリのおかげで、あらゆる番組を自分のペースで楽しめる。そうなってみて気づいたのは、ラジオ番組は別のことをやりながら聴けるということだ。洗い物とか掃除とか、ちょっとした事務作業とか、あまり頭を使わない作業をしながらのときもあれば、散歩中や仕事からの帰り道に聴くこともある。それでも番組の内容はちゃんと楽しめる上に、気づけば面倒な洗い物なんかが終わっている。合間合間に色々なことを考えることさえしている。ラジオ(というか音声メディア)の強みは、ここにある気がする。
音楽を耳にすると、その曲を聴いたときのことを思い出すことが少なくない。僕はglobeの曲を聴くと、小学校の教室で友達と「昨日のミュージックステーション見た?」としゃべったことや、こっそり兄貴の部屋に入って、大きなCDコンポでglobeの「FACES PLACES」という曲を聴いたことが頭に浮かんでくる。曲がトリガーとなって、曲そのものとは関係のない記憶まで再生されるのが面白い。
不思議なことに、これを書きながらglobeの曲を聴いた気になったのか、ある記憶が鮮明によみがえった。テスト期間か何かで部活がなかった日の夕方、実家の西側にある兄の部屋には夕日が差し込んでオレンジ色に輝いている。薄いカーテンしか閉めてないから光がやけにまぶしい。制服がしまってある簡易クローゼットの前に僕は座っている。家には自分しかいない。たぶん母親は夕飯の買い物に出かけているんだと思う。
急にカレーの匂いが漂ってくる。大きな人参、ちびまる子ちゃんのアニメ。いつのまにか夕方じゃなくて日曜の夜。日曜の夜は定期的にホットプレートを使って焼き肉したなぁ。センター試験の1日目を終えた夜に、家族ですき焼きを食べに行ったことも思い出した。シメのご飯が出てくるのがやけに遅く、糸こんにゃくの切れ端でご飯を食べなきゃいけなくなった。白ご飯をかきこむ父親の姿がよみがえってなんだか悲しくなった僕は、それが数学の出来が壊滅的だった僕を慰めるための外食だったことや、自分も白ご飯をほおばりながら「頑張って親孝行しよう」と考えたことまで思い出した。気づいたら今、とても悲しい気持ちになっている。記憶の力ってすごい。
■受け手が思考するための「余白」
音楽と同じようにラジオ番組も記憶や思考を引き出すトリガーになりやすいのではないか。聴覚も視覚も固定されるテレビのようには思考は制限されない。ラジオ番組に流れる音楽やパーソナリティーのちょっとした言葉をきっかけに、リスナーは思いを巡らせる。つまり番組が発信している以上の情報がリスナーの中に膨らんでいく。それがラジオ番組に対する熱量を大きくしている要因なのかもしれない。
だとすると「表現」は、受け手が思考するための「余白」を含んだ方が、より届きやすくなるのではないか。僕の場合だと表現ツールは落語。落語そのものの面白さは当然として、そこにお客様が自分の記憶を結びつけるための余白のようなものを生み出せば、より強い印象を与えられるかもしれない。
ここでふと「懐かしさ」という感情が思い浮かんだ。これも受け手に「余白」があればこそ、生まれやすい心の動きなのではないか。街を歩いていると、ふとした瞬間に懐かしく感じることがある。下校中の小学生とすれ違ったときや、アパートの換気扇からシャンプーの匂いが漂ってきたときなど、どこかで体験したであろう風景や匂いがきっかけになることもあるけど、見知らぬ場所のはずなのに何だか懐かしく感じることも少なくない。そして懐かしく感じている瞬間は、いつだって心地いい。
「懐かしい」と感じているくらいだから、そこには当然、自分の記憶が関連している。日常の何気ない瞬間がトリガーとなって、その風景以上の情報を僕にもたらしているに違いない。
「懐かしさ」の正体について考えてみたくなったけど「驚くべき証明を見つけたがそれを書くには余白が狭すぎる」と記した数学者フェルマーよろしく、僕もいまここでそれを書く余裕はない。
と書きながら、淡路島に向かう高速バスの景色を思い出している。好きだった人に会いに行ったのだが、そのときに読んでいたのが「フェルマーの最終定理」について書かれた本だ。右手には大きな観覧車、その手前で海鳥が風に流されている。懐かしいなぁ。
本名は人羅真樹(ひとら・まさき)。1984年6月27日生まれ、京都市出身。京都教育大学教育学部数学科教育専攻中退。2010年11月、立川談笑に入門。12年04月、二ツ目に昇進。軽妙かつ時にはシュールな創作落語を多数手掛ける。エッセー連載やテレビ・ラジオ出演などで多彩な才能を発揮。19年4月から月1回定例の「ひとり会」も始めた。著書に「現在落語論」(毎日新聞出版)。
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