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歌手・作曲家の杏里さん 学校休んでも父の仕事に同行

2019/5/24 日本経済新聞 夕刊

1961年神奈川県生まれ。17歳で「オリビアを聴きながら」でデビュー。数々のヒット曲を作り、多くの海外アーティストと共演。デビュー40周年で7月27日から埼玉、東京、神奈川、福島、長野で公演

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は歌手・作曲家の杏里さんだ。

――大変な「お父さん子」だったと聞きます。

「それは本当で、父も私を溺愛してくれました。けれど3人の兄の下に私が生まれた当初、父は不本意だったようです。建設業、生コンクリート製造、温泉掘削と次々事業を立ち上げて成功させたエネルギッシュな父は、もうひとり男の子が欲しかったのですね。母は『産んで1週間たっても父が病院に来ない』と兄に泣いたといいます」

「どこにでも父について行きました。幼稚園のころから私は地獄耳で、父母が仕事で北海道に行くと気付いたときは、朝早くから玄関にがんばっていて、強引について行きました。父と会社の顧問弁護士が仕事の話をしていた銀座のクラブについて行き、退屈のあまり外に出て迷子になったこともあります。数寄屋橋の交番に保護されてしまいました。学校を休んででも父と全国を旅していたのです」

――半面、しつけには厳しかったとか。

「自分にも周囲にも厳しかったので、家族は大変です。食事は必ず全員でとるのですが、とばっちりで小言が飛んで来て『ちゃぶ台返し』があるので、父の正面を避けようと兄弟で競争です。たいてい要領の悪い私が座らされました。自分は銀座に連れて行くのに、帰宅後の外出は小中学校時代は完全禁止。父が決めた人と25歳までに見合い結婚しろと厳命されました。これは何とか避けましたが……」

「杏里としてデビューした後も、父は私の仕事環境を心配していました。思い出すのは、ツアーで雪の名古屋市に泊まった夜のこと。ホテル裏の店で盛り上がり、私がスタッフにビールを注いでいた時、突然ドアが開いて父が現れたのです。一同凍り付いたところで父は無言で消えました。気を取り直してひとわたり騒ぎ、私がホテルの部屋に戻った途端、電話が鳴りました。『ちょっと質問がある。酒を注いでいたのは好んでやったことなのか』と父。何も言えませんでした」

――そのお父様は2000年に急逝します。

「アルバムを次々出し、ツアーを続けた1980~90年代、私は米ハワイ公演を含め全てのコンサートに父母を招待していました。旅好きな両親への親孝行でもあったのです。そんな時の父の感想は『声が出てたな』『すごい人数だったな』など短いものばかり。母経由で知りましたが、私にはそれで十分でした」

「父の死はレコーディング中の米国で知りました。大きな悲しみと喪失感の中、2日間だけ帰国してすぐにレコーディングに戻りました。仕事を投げ出さない責任感、一度決めたら続ける力、臆さず新しいことに挑戦する心など、私が父の背から学んだことはたくさんあります。それは40年ステージを降りていない今の私を支えています」

[日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]

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