母親になった土佐礼子さん、もう一つのマラソンに挑む土佐礼子(最終回)

長女を胸に抱いて、忘れかけていたチャレンジへの意欲も強くよみがえった。

02年4月、土佐がキャリアベストとなる2時間22分46秒(当時日本歴代3位)をマーク(4位)した、ロンドンマラソンで優勝したポーラ・ラドクリフ(2時間15分25秒の世界記録保持者)の存在である。

現在もマラソンランナーとして「恥ずかしくない体形」を意識する

このレースで初マラソンに挑んだラドクリフは後半、驚異的なペースアップを見せ、2時間18分56秒の当時世界歴代2位で優勝。土佐にとって前年のエドモントン世界陸上銀メダル以来のマラソンだった。異次元のスピードに圧倒されながらも、アテネ五輪出場の可能性は一気に現実的になった印象深いレースでもある。

アテネ五輪(04年)では、優勝候補筆頭に挙げられた女王・ラドクリフが、金メダルを獲得した野口みずきの25キロからの猛スパートに付いて行けず36キロで棄権。救護もコーチである夫もいない場所で、まるで迷子のように途方に暮れ、沿道にしゃがみ込んで涙する姿を、後に土佐も知って「胸が痛んだ」と話している。

ラドクリフは07年1月に長女を出産し同年11月、わずか10カ月後のニューヨークシティーマラソンで(当時33歳)優勝した。ゴールで長女を抱き笑顔を見せる様子に、土佐は実業団のトップ選手としてではなく、ランナーとしての自分自身の最終ゴールを見いだした。

自ら決めた最終ゴール

「棄権の悔しさには、確かに東京のゴールで区切りはつけられました。でもオリンピックで味わった悔しさはやはりオリンピックで返したいとも考えていました。また、出産してどこまで走れるのか、ラドクリフさんの姿を見てチャレンジしてみたいなと思っていたんですね」

ラドクリフは臨月までトレーニングを続けるなど賛否両論あるなか、産後の綿密な復帰プランを医学面、精神面で実行しニューヨークで優勝。改めて女性と、母になってからの競技力向上にも世界的な注目が集まった。

一方日本では、出産した女子トップアスリートたちの復帰に、科学的、また医学面でのサポートはほとんどなく、それぞれが自らの知恵と努力で打開するほか手だてがなかった。

名古屋ウィメンズマラソンゴール後、観客の声援に応える(2012年3月)=共同

1998年長野五輪で銅メダルを獲得した岡崎朋美(女子スピードスケート)も出産後、開いた骨盤が元に戻りにくくケガが続いたと話していた。土佐も出産後、股関節の痛みなどに悩まされ、トレーニングはなかなか思うようには進まなかった。日本の女子トップ選手たちの「壁」である。全てが手さぐりで、子育ては思っていた以上のエネルギーが必要だったが、それでも壁にチャレンジする価値は十分にあった。夫、母親のサポートを受け、出産から約2年後の2012年3月、数々の修羅場をくぐってきた名古屋ウィメンズマラソンのスタートラインに帰った。大会は、この年のロンドン五輪最終選考会でもあり、2時間43分11秒の40位に終わったが、もう涙はなかった。

「2時間30分を切れなければ勝負にはなりません。もう勝負師ではない。自分に、自分でそう言って引導を渡せました」

入社し、あまりのスピードのなさにあきれた鈴木秀夫(当時三井海上陸上部監督)に「マラソンをやるか」と聞かれ、もう後がないと悟って「はい」と即答。そこから始まったマラソンキャリアは、オープン参加で順位がつかなかったものを除き14戦でうち3勝、2位3回、3位3回と12レースで5位以内に入る圧倒的な安定感を誇った。例外は、北京五輪の棄権と、ラストレースの名古屋ウィメンズ40位だけである。日本女子マラソンの黄金時代を、堂々と先頭集団で駆け抜けた12年だった。

五輪で棄権する深い傷と向き合った長い時間で、「これも必要な経験だった」と、答えは出ている。

「どんなに願っても、願っても、どれほど努力して頑張ったとしてもかなわない夢はあるのだと、私はあの棄権で知りました。でも、その過程が大切だった、と今は考えられる。たとえ夢が破れたとしても、そのかけらも夢を追いかけた証し、夢の一部です。自分の子どもたちだけではなくて、誰かがつまずいた時、そう背中を押してあげられる日が来ると願っています」

ある大会のゲストランナーで出演した際、日本男子マラソンのレジェンド、中山竹通(59、ソウル、バルセロナ両五輪4位)と一緒になった。現役時代と変わらない体形に驚き、その理由を聞くと中山は笑いながら答えた。

「マラソンランナーとしてオリンピックに出場したのだから、たとえ引退しても常に周囲からランナーとして見られるし、期待される。だからいくつになっても、恥ずかしい体形にはなれないよ。努力しなきゃ」

自分もその言葉を忘れないよう、できる限り体形をキープしようと決め、夫と子どもを送り出してからの短い時間、自宅の周辺を毎日「軽くランニングする」と言う。時には追い込もうとするが、思い直し「楽しもう、ゆっくり走ろう」と自分に言い聞かせるようになった。午前中、家事を終え、着替えてランニングシューズを履くと、土佐は振り返って笑った。

「姉と走るマラソンが今、とても楽しみなんです」

今の夢は、姉や夫、家族たちとゴールを目指すホノルルマラソンだ。

=敬称略、この項終わり

(スポーツライター 増島みどり)

土佐礼子
1976年6月、愛媛県北条市(現松山市)生まれ。中学まではバスケットボール部に所属。松山商業高校で陸上競技を始め、松山大学でも主に中距離を専門としていた。99年、三井海上火災保険(現三井住友海上火災保険)に入社してマラソンに転向。実質、初マラソンとなった2000年3月の名古屋国際女子マラソンで当時日本歴代4位の記録で2位に入った。01年の世界陸上エドモントン大会で銀メダルを獲得、07年の大阪大会でも銅メダルに輝いた。五輪では04年のアテネで5位に入賞し、08年の北京では右足の痛みのため25キロ付近で途中棄権した。現役時代全15レースで唯一の棄権。12年3月のレースが現役最後となった。自己最高記録は02年ロンドンでの2時間22分46秒(日本歴代10位)。私生活では04年12月、大学の先輩である村井啓一氏(松山大職員)と結婚した。現在2児を育てる傍ら、三井住友海上火災保険の「スポーツ特別社員」としてランニングイベントなどに参加する。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

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