
死んだブタの脳の細胞機能を回復させることに、研究者が成功した。これは、脳疾患の治療に新しい可能性を拓くと同時に、現在の脳死の定義を根底から揺るがす研究だ。
米エール大学医科大学院の研究チームは2019年4月17日付けで学術誌『ネイチャー』に論文を発表し、人工透析装置に似た「BrainEx」というシステムを開発したと報告した。BrainExは、死んだ脳に血流と酸素の流れを復活させる装置だ。
最初に断っておくと、研究チームは、この実験のためにブタを殺すことはしていない。彼らは、近隣の食肉処理場から、食用に解体されたブタの頭部を譲り受けたからだ。また、ブタの脳は生き返ったわけではない。意識を生み出すほど組織立った神経活動の兆候は見られなかった。実験自体、生き返ることがないように細心の注意を払って行われた。
細胞機能を最大6時間復活
「臨床的な定義から言えば、これは生きた脳ではありません」とエール大学医科大学院の神経科学者ネナド・セスタン氏は言う。
BrainExが達成したのは、放っておいたら腐敗してしまう死んだ脳を、それなりに良い状態に保つことだ。ブドウ糖と酸素をとり込むといった細胞機能を、最大6時間復活させることができた。研究者たちは、脳の障害や疾患を研究するのにこの技術が役立つと期待している。
「非常にわくわくしています。この技術を使えば、心臓発作により脳への血流に問題が生じた患者をどのように治療すべきかについて、理解が進む可能性があります」。米国立神経疾患・脳卒中研究所の神経倫理プログラムのディレクター、カーラ・ラモス氏はそう話す。「脳の細胞を、複雑につながった状態のまま調べることができます」
とはいえ、今回の研究結果は、いくつかの倫理的に重要な問題を投げかける。研究者たち自身、議論が起こることを歓迎している。
「心と脳の疾患に苦しむ人がこれだけ大勢いる現在、ヒトの脳を研究するための良いモデルを提供する今回の研究は、非常に重要で有望なのです」と、今回の研究について『ネイチャー』誌に論評を寄せた米デューク大学法科大学院の生命倫理学者ニタ・ファラハニー氏は説明する。
同氏はまた、「今回の研究は、神経科学の根本的な仮定の多くに疑問を投げかけるものでもあります」と言う。「例えば、いったん脳に酸素が行かなくなると、生物としての死が不可逆的に進行する、という仮定は正しくないことがわかりました。そうなると、倫理的・法律的に非常に深刻な問題が提起されることになります」
「脳死」の判定基準
数千年にわたり、呼吸と心拍が停止すれば人は死んだと判断されてきた。けれどもそこに現代医学が待ったをかけた。人工呼吸器の発明で、衰弱した人もより長く生きられるようになり、心臓手術や臓器移植が改良され続けてきたおかげで、心臓の停止は必ずしも死を意味するものではなくなった。
とはいえ、脳の気難しさは今も同じだ。ヒトをはじめとする哺乳類の脳は高性能マシンのようなもので、最大限の力を発揮するには、酸素を豊富に含む血流が絶え間なく供給されている必要がある。脳への血流が途絶えれば、私たちはものの数秒で意識を失う。それから5分もしないうちに、脳が蓄えていたブドウ糖やATP(生体内で使われる、化学エネルギーの共通通貨にあたる物質)は尽きてしまう。
脳はここから不可逆的な(と思われていた)死のスパイラルに入る。神経細胞の化学作用が乱れ、脳内の血液が変質、やがて、神経組織を分解する酵素が活動しはじめ、脳の小さな構造や血管が破壊される。
死のプロセスの解明が進むにつれ、そうした知見が死の定義に組み込まれるようになった。1968年には米ハーバード大学の医師からなる委員会が、「不可逆的昏睡」、つまり今で言う「脳死」の判断基準として、完全な無反応、自発呼吸の停止、反射運動の消失、脳の電気的活動の消失の4つを定めた。現在、米国では米神経学会が脳死判定のチェックリストを定めている。