マイノリティーの救済 上から目線になってない?
ダイバーシティ進化論(水無田気流)
今年の米アカデミー作品賞受賞作、ピーター・ファレリー監督『グリーンブック』の評価が賛否両論を呼び、ダイバーシティ推進の新たな課題を示した。
舞台は1962年のアメリカ。天才黒人ピアニストのドンと、ドライバーでイタリア系白人のトニーは、コンサートツアーのため黒人差別が横行していた南部に向かう。博士号をもち穏やかで知的なドンと粗暴で無教養なトニーは、当初衝突してばかりだ。
未視聴でネタバレがお嫌いな方は、以下ご注意を。ドンのような「教養ある黒人」は、南部で居場所がない。たとえば彼の演奏を聴きに来るのは白人ばかりなのに、彼自身は白人コミュニティーに入れない。かといって、黒人専用ホテルに宿泊させられ柄の悪い黒人たちに混じると浮いてしまう。さらに黒人というだけで、白人からの暴力にもさらされて……。ドンが「黒人にも白人にもなれない、私は一体何者なんだ!」と叫ぶシーンは、印象的だ。
一方、トニーは当初、素朴な黒人差別主義者だった。だがともに旅をするうちドンへの不当な仕打ちに怒りを覚え、彼を守るようになる。
やがて2人の間に友情が芽生えるのだが、批判は主にこの描き方が「ホワイトスプレイニング(白人が上から目線で非白人を説教すること)」という点だ。なるほどマイノリティーである有色人種は自らに価値を見いだせず、「寛容な」白人に「受け入れてもらう」ことにより救われる、という筋書きは白人にとってご都合主義的といえる。
昨今、多様性の尊重や公正な社会が施行されつつあるが、その副産物として主流文化に属す人々による「独善的なマイノリティー救済」が問題化されつつあるということか。
なお「ホワイトスプレイニング」は「マンスプレイニング」から派生した言葉だ。男性が女性の意思決定権を軽視し「正しい女性のあり方」を説教することなどを意味する。構図的にも上述のドンを「女性」に置き換えてみれば、高学歴女性が直面しがちな性規範の二重基準と相似形を描く。
先ごろは、東大入学式にて上野千鶴子・東大名誉教授が祝辞で日本社会の女性差別的特性に触れ話題となった。批判には「女性は男性から選ばれてこそ幸せ」と決めつけるなど、まさにマンスプレイニング的なものも目立ち、くしくも問題の根深さの証左となった。
1970年生まれ。詩人。中原中也賞を受賞。「『居場所』のない男、『時間』がない女」(日本経済新聞出版社)を執筆し社会学者としても活躍。1児の母。
[日本経済新聞朝刊2019年5月6日付]
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