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夕暮れの東京・兜町(画・安住孝史氏)

夕暮れの東京・兜町(画・安住孝史氏)

夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(81)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。

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僕はタクシー運転手の仕事を期間をおいて3回も勤めました。それぞれ事情があってのことです。1回目はフランスの巴里(パリ)に行く費用を稼ぐためでした。東京オリンピックがあった昭和39年(1964年)のあくる年、8月の終わりです。タクシー稼業が全盛の時代。大学出の会社員の初任給は2万円程度でしたが、タクシー運転手の月給は多い人で4万円くらいありました。歩合制でしたから、お客さまを乗せて走るほど、給料もあがりました。

初乗りは100円でしたが、街はタクシー待ちのお客さまであふれていましたから、無理をしなくても1日の水揚げ(売り上げ)は1万円近くありました。料金メーターは時間併用ではなく実際に走った距離で加算されていましたので、運転手は渋滞して時間がかかる方面に行くのは嫌がり、乗車拒否はばんばん。寸時も休まずスピードを出して車を飛ばしていたため「神風タクシー」と恐れられたのも、このころのことです。

駆け出しのタクシー運転手だった私に、とても親切に接してくれた先輩がいました。当時は車にクーラーは取り付けられていませんから、夏の服装と言えば、お客様に見える上半身は会社支給の開襟シャツ、下はステテコに草履ばきです。中にはシャツを着るのを嫌がってダボシャツの運転手もいました。しかしその先輩は夏でも長シャツでした。

不思議なほど優しい先輩

それが彫りものを隠すためだと僕が気がついたのは、風呂場でのことでした。会社には仕事を終えた運転手のために6人ぐらい入れる風呂場がありました。ある日、僕が乗務から上がって風呂場に行くと、その先輩が入っていました。見ると背中から腕にかけて見事な彫りものです。でもまったく怖いとは思いませんでした。

不思議なほど優しい先輩でしたから。お客さまを拾いやすい時間と場所を惜しげもなく教えてくれ、「二人連れのアベックは良いお客さま」「酔っぱらいは面倒になるから要注意」などタクシー運転手の心得も聞かせてくれました。ちなみに、二人連れのアベックというのは、男性がいったん女性を送り届けてから自宅に戻るため、長距離となるケースが多いという意味です。

彫りものが怖いイメージと結びつかなかったのは、子供の時の経験もあったからかもしれません。戦前、小学校に入るまで東京・下谷で育ちました。下町では自家用の風呂がある家庭はまれで、隣近所の仲間も僕も、みんな銭湯に行きました。そこには彫りものがある大人がいつも2、3人はいて、若い人もいれば、背中の彫りものがしわしわになったお年寄りもいました。

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