衰えながら長生きしたくない
脚本家、大石静さん
長寿の時代といわれますけれども、100歳まで生きることがめでたいのでしょうか? 顔も体も醜くなり、動作は鈍くなり、大きな声で同じ話を繰り返す。子や孫に迷惑をかけてまで長生きすることになれば、むごい。人生は80年もあれば十分、自分で最期を決められたらいいのにといつも思います。
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私も、最後の日を自分で決めることができたら、いい人生だったと思って死ねるような気がします。
もうそんなにやり残したこともなく、いつ死んでも悔いはないように感じていますが、死ぬ手段を自ら講じる勇気は、到底持てません。だから生きています。生きている以上、それなりに手応えがないとつまらないと思い、仕事も精一杯やっています。でもどこか虚(むな)しいです。
国は、老人が増えて財政破綻がますます進むと危機感を煽(あお)りますが、死にたい人を安楽死させてくれるほど、親切ではありません。医師も同じです。
何とかしてよ、と言っても誰も何もしてくれないのが現実です。したがって、あなたも私も、誰も彼も、死ぬまで生きるしかないわけです。
「むごい」とあなたはおっしゃいますが、そのむごさこそが人間の宿命だと、腹を決めるしかないのではないでしょうか。
風貌や体力の衰えに耐え、命の終わりを生きるのが、人間の最後の"修行"のような気がします。私は、日々老いてゆく自分を感じて寂しい時、「今、私は修行中なのよ」と自分に言い聞かせます。
さて、ここで、もうちょっと違う角度から考えてみましょう。
老いの悲しみさえ自覚できない状況となった人間が、それでも生物として生きようとする本能は、尊いとも思います。
まだ究極の老いに直面していない我々が、「むごい」とか「醜い」と言うのは、おこがましいと感じます。
"安楽死"や"尊厳死"の問題にも正解はありません。
延命治療の拒否など、元気なうちに意志表示しておいた方がいいというのが常識ですが、最期の時の私の命が、何を求めるかは未知でしょう。
人間は本人の意志に関わりなく生まれます。
死に際もまた、自らの意志通りにはいかないのが、生命の神秘なのかもしれません。
あなたもいずれそうなるのですから、命の終わりを生きる人を「むごい」とか「醜い」と言うのはとりあえずやめ、辛いですが、今を淡々と生きるしかないのではないでしょうか。
[NIKKEIプラス1 2019年4月27日付]
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