大畑大介さん 縮こまった心変えた平尾誠二さんの言葉
元ラグビー日本代表 大畑大介さんに聞く(上)
いよいよ2019年9月20日から、ラグビーワールドカップ2019日本大会の幕が上がる。東京スタジアム(調布市)で開幕し、11月2日横浜国際総合競技場で行われる決勝戦まで、約1カ月半に及ぶ世界大会。そこで今回から3回にわたり、元ラグビー日本代表で過去2度ワールドカップに出場し、ラグビーワールドカップ2019日本大会アンバサダーを務める大畑大介さんに話を聞く。1回目は、ラグビー人生で培われた強靭(きょうじん)なメンタルについて。
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心の弱さをラグビーで鍛えてきた
――大畑さんといえば両足のアキレス腱を断裂したり、両肩を痛めたりなど、幾度の大ケガと戦いながら第一線で戦われてきた、メンタルの強さが印象的です。
大畑:でも本来、僕は心が弱い人間です。今も強いとはいえません。だから、その弱さをラグビーを通じて鍛えてきました。
僕は子供の頃から人と接するのがすごく苦手で、周りの子供たちとうまくなじめませんでした。輪の中に入れなくて、入るにはどうすればいいかと考えたとき、自分から入れないのであれば、みんなが興味を持ってくれるような人間になればいいと思ったんです。
そこで、足の速さに自信があった僕は、その強みを生かそうと小学3年生のときにスポーツを始めることにしました。でも、人と同じことをするのが嫌だったので、みんながやっている野球はやりたくなかった。家から花園ラグビー場が近かったり、父親が学生時代にプレーしていたことから、消去法でラグビーを始めることにしました。憧れでラグビーを始めたわけではありません。
入部したラグビーチームは知らない子供ばかりで、最初はやはり1人でポツンといました。でも、誰よりも足が速かったことで、みんなが僕に注目してくれました。自分から無理に扉を開けて輪に入らなくても、すんなり輪に入ることができた瞬間、「ラグビーを続けたら周りとつながることができるんだ」と、初めて自分の居場所ができたことを実感しました。
僕にとっては、ボールを持ってプレーすることが楽しかったわけではなく、居場所が見つかったことが何よりもうれしかった。だからこそ、自分から踏み出したラグビー人生に対しては、否定したくないという気持ちが強いです。
――否定したくない?
大畑:決して順調にラグビー人生を歩んできたわけではなく、ケガが治らず思うようにプレーできないという、どん底時代もありました。それでも、気持ちが折れずに乗り越えようと思えたのは、ケガでプレーできなくなることが自分にとっては大してネガティブなことではなかったから。それよりも、ラグビーをやめて人とのつながりがなくなること、自分を表現するものがなくなることの恐怖心が大きかったので、やめられなかったのです。だから何があっても、前を向いてラグビーを続ける方法を模索し続けられたのだと思います。
「為せば成る」が自分の柱
――簡単に前を向けるものでしょうか。
大畑:小学校6年の頃から誰に教わったわけでもなく、「為せば成る」という言葉が、自分の柱になっています。
「為せば成る」とは他人任せではなく、自分自身がどうするかということ。思うようにならなければストレスになりますが、その現実を受け入れ、その時にやれることをやって一歩前に進んでいくしかないと思えました。
そのときに大事なのは、みんなからチヤホヤされて調子が良かった頃の自分や、他人と比べないこと。それは虚像でしかないからです。そう思うと、自分にベクトルを向けることができます。
――「為せば成る」ということを最も実感できた時はいつですか?
プレーヤーとして実績がないまま、地元の東海大学付属仰星高校に入学し、ラグビー部に入部しました。当時はラグビー名門校ではなかったものの、スポーツ推薦で入部している実績のある選手が多く、そんな中でプレーするには、自信が必要でした。何が一番自信になるかと考えたとき、自分の力がチームにとってプラスに働いた時ではないかと思ったわけです。
でも、僕の実力は下っ端。そんな自分がレギュラーになって貢献してチームが強くなるにはどうすればいいかと考えたとき、自分の強みを生かして誰よりも速く走ってトライする選手になればいいのではとイメージできました。そこでチームの誰よりも練習量を増やすことを自分に課し、脚力を徹底的に鍛えたんです。結果、1年のときの50m走は7秒00でしたが、その1年後には 5秒台になっていました。
この成功体験により、課題は与えられるものではなく、自分で見つけて、どうなりたいかという明確なイメージを持つことで納得してアプローチできるものだと学びました。為せば成ると実感した瞬間でした。
以降、自分が評価されなくて悔しい思いをした時期も、うじうじ悩んだり、くじけることもなかった。自分にベクトルが向くようになり、周囲の評価に振り回されることなく、気持ちを早く切り替えられるようになりました。
その後、京都産業大学に進んで大学2年から3年の半年で無名選手から日本代表になって、3試合で10トライするまでになり、一気に上へと駆け上がることができました。しかしそうなると、人間は調子に乗ります(苦笑)。僕も例外ではなく、日の丸や桜のユニフォームを着る重みや意味も分からないまま、自分は何でもできるんだという錯覚に陥ってしまったのです。
「お前、どうしたいんや」
――錯覚だと気付いたきっかけは何ですか?
日本代表になった翌年、大ケガをしてしまい、思い通りのプレーができなくなってしまいました。その途端、今まで手に入れてきたものを手放したくないという恐怖心が生まれてきました。
それまでは、代表になるためにリスクや恐怖心もなく、積極的に攻めるプレーや行動でチャンスをつかめていました。どうしても代表合宿に参加したいからラグビー協会に電話して参加させてもらったり、日本代表になるためならと、必死でいろんなことをやってきたんです。
でも代表になってケガをし、思うようにプレーできなくなった途端、代表の座を手放したくないという思いが強くなった。ミスしたくない、失敗したくないと、消極的なプレーをするようになってしまいました。
周囲の評価を気にする自分が現れ、悪く思われたくないと思うあまり、ジャッジをする人の目から少しでも外れるように縮こまり、しばらく自分自身をうまくコントロールすることができない感覚に陥りました。実力的に、代表当確線上ギリギリだったこともありますし、翌年の1999年にワードルドカップに出たいという思いがあったことも大きいです。
そんなある日、当時の日本代表監督・平尾誠二さんに呼ばれて、「お前、どうしたいんや、どうなりたいんや」と言われました。「元々お前は完成しているプレーヤーではない。いびつな形の、だけど可能性をすごく秘めている選手だから、俺はお前のことを選んでるのに、そのいびつさをお前から取ったら魅力がなくなる」と。
そして、「最後にチャンスを与えるから、そこで自分自身をしっかりと表現できなかったら、次の代表に関しては考えさせてもらう」と言われました。最後通告であり、いかに自分が魅力のない選手になっていたかということに気付いた瞬間でした。
――どんなお返事をしたんですか?
「分かりました、やります。だからこの1試合で僕を評価してください」と。それから自分はどうしたいのか自問自答しました。代表の座をつかむまでは様々な方法でチャレンジして自分を表現してきたのに、その座をつかんだ途端、弱気になって自分自身を表現できていないことを情けなく思いました。
そして、平尾さんの最後通告で目が覚め、今持っているものをすべて出し切って、それで評価されなければ仕方ないと思うようにしたんです。そんな思いで競技場に立った時、すごくいいプレーをすることができました。メンタル1つで行動や結果が激変することを、勉強させてもらった時間でした。
(ライター 高島三幸、カメラマン 厚地健太郎)
1975年大阪生まれ。京都産業大学時代に日本代表として活躍、98年に神戸製鋼入社。2001年にはオーストラリアのノーザンサバーブ・クラブでプレーし、03年にはフランス・モンフェランに入団を果たす。03~04年シーズンからは神戸製鋼コベルコスティーラーズにプロ契約。その後日本代表キャプテンを務めるなどラグビー日本代表を牽引し、ワールドカップに2度(99年、03年)の出場を果たす。ラグビーワールドカップ 2019日本大会アンバサダーを務める 。所属事務所:ディンゴhttp://dingo.jpn.com/
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