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未完のレース

柔道離れタレントに 篠原さんが知った銀メダルの価値 篠原信一(4・最終回)

2019/3/27

「芸人の皆さん、(司会進行の)MCを務めている方、誰もがまるで一瞬、一瞬の勝負をしているように見えましたね。この反射神経ってどうなってんの?とただただ感激した。スピード感、相手の意図をすぐに判断してどう切り返すか、とか、短い時間でどう相手に伝わるように話すか、それから迫力も。そうか、柔道と似ているんだと感じる部分もありました。もちろん自分はただのド素人でしたし、これが向いているとは思いませんでしたが、イジられるという立場もとても勉強になった」

■「誤審でも何かは残った」

柔道界、あるいはメディア関係者と接するなかで、「誤審だったんですよね? でもまだ時間あったのだから攻められたのでは」とか、「何で審判に抗議しなかったのか」と尋ねる者など皆無だろう。触れてはいけないのではないか、と誰もが気遣いするはずだ。しかし、テレビ、タレントとして活動を続けるなかでは、それらの重い過去がまるで「芸」のひとつであるように触れられるようになる。

テレビの世界に入り「芸人の皆さんの反射神経に感激した」という

誤審も、金メダルを獲得できなかった指導者としての自分も、どちらも言い訳など一切ない。心に封印してきた悔恨だった。ところが柔道を離れた時、初めて柔道について話せるようになった。タレント活動がもたらしたのは、タレントでありながらむしろ「素の自分」を表現できる軽快さでもあった。

柔道家、勝負師としての篠原にとって、銀メダルは評価の対象ではない。日本柔道界に求められるのは金メダルのみ。五輪が終わりしばらくの間は称賛されるかもしれない。しかし、2年たち、4年たち、10年がたったら「メダルは3つあるけれど、誰も金メダリスト以外は覚えていない。銀メダルでも頑張ったからよかった、そういう認識は自分にはありません」と、かつて言い切っていた。

一方で、選手、監督、柔道を離れた今、全く異なった考え方もできると、穏やかな表情を浮かべる。

「柔道を離れて初めて柔道を話せた。タレント活動はそんな考え方を教えてくれたのかもしれない。柔道家として獲得した銀メダルなどいつか忘れられる、そう思ってきた。けれども今冷静に思うと、あの誤審、銀メダル、この2つは自分の消せない過去でもセットとして皆さんに記憶してもらっている。オリンピックで経験できたのは決していいものばかりではなかったけれど、それでもこれだけ覚えてもらった。それも悪くはない。誤審でも何かは残った。今はそう思ってます」

■ボランティア活動盛り上げたい

40歳を機に柔道界を離れたのと同じように、50歳からの人生を視野に、昨年、近い将来での移住のために長野県安曇野に古民家を購入した。人生のシフトチェンジは、柔道の技の切れ味にも似て鮮やかである。

仕事ぶりをマネジャーとして最も近くで見て来た星野恭平(コネクト)は、「人との間合いを詰め、場面での展開を読んで的確に対応するなど、オリンピックを戦った勝負師としての勘が鋭いと感じます。また篠原さんが会話に入ると、場が和む気がします」と、タレント篠原を評する。

50歳からの人生を見据えて、長野県安曇野に古民家を購入した

現在、NBS長野放送「土曜はこれダネッ!」、SBC信越放送「ずくだせテレビ」、また関西でも、NHK関西「まちけん参上」、MBS「戦え!スポーツ内閣」と4本ものレギュラー番組を抱え、ほかにも、声優や映画のプロモーションほかで多忙な日々を送る。

20年東京五輪まで500日を切った現在、柔道界、日本のスポーツ界との距離はどのように測っているのか。選手として、指導者としてその最高峰に立ったトップアスリートは、意外、ともいえるところに目を向けている。

「一生に一度、自国で開催されるオリンピックですから、選手は言われなくたって頑張るのが当たり前でしょう。井上監督のもと、いい結果が出るように願っています。僕個人としては、東京をきっかけにしてボランティア活動がどう広まっていくか、それをとても大切に考えている。思い返せば、自分のオリンピックだってボランティアがいてくれたからこそ成り立っている。例えば1万2000人が出場するマラソンのイベントでも、3500人ほどがボランティアになるほどスポーツを支える意識が高い。高校生が多い場合もありますが、世代とか、性別とか、いろんな立場関係なく、みんなで一緒に東京を、パラリンピックを盛り上げていきましょう、と心から思っています」

実際に、自身もボランティア活動を支援するため東京までのイベントなどに関わっていくプランだという。さらに、パラリンピックへの関心を高めるために、すでに「スポーツ能力測定会」といった体力測定や、選手発掘のプログラムの定期的な実施にも参加している。14年から本格的にスタートしたタレントとしての活動で全国を回り、幅広い人脈を築けたからこそ、トップアスリートだけではなく、それを支えるボランティア、パラリンピックにも目を向ける。

山里で自身の手で米を作り、野菜を育て、魚を釣って、自然のなかでツーリングを楽しむ。夢の生活まではまだ少し時間はかかりそうだが、「待ち遠しい」と笑った。

=敬称略、この項終わり

(スポーツライター 増島みどり)

篠原信一
1973年1月、神戸市長田区出身。中学1年より柔道を始める。高校まで無名だったが、天理大に入学してから頭角を現す。95年同大を卒業後、旭化成に入社。98年、99年、2000年の全日本選手権で3連覇したほか、99年世界選手権では100キロ超と無差別の2階級で金メダルを獲得した。日本男子が重量級で優勝したのは五輪、世界選手権を通じて8年ぶりだった。00年のシドニー五輪では、誤審によりフランスのダビド・ドイエに敗れて銀メダルに。内またを透かして投げたにもかかわらず、これが逆に相手の有効とされた(大会後、国際柔道連盟はドイエの有効にポイントを与えるべきでなかったと結論づけた)。01年の全日本決勝で6歳下の井上康生に敗れ、同年の世界選手権では銅メダル。02年に母校である天理大の監督に就任、03年に引退を表明した。08年には斉藤仁の後を継いで男子柔道日本代表監督に就任。直前の北京五輪で金メダル2つだった男子柔道の再建を託されたが、12年ロンドン五輪は初の金メダルゼロに終わった。責任をとる形で辞任した後は、タレント活動や後進の指導に取り組んでいる。身長190センチ、体重105キロ(現役時代は135キロ)。柔道6段。3男1女の父。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬季五輪などを現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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