男子柔道界の頂点を極めた篠原信一(46)は今、売れっ子のタレントとして活動している。「誤審の銀メダリスト」「金メダルを取れなかった監督」。五輪の悔恨は心に封印してきたが、柔道から離れて初めて、そうした過去のおかげで多くの人々に覚えてもらえていることを実感したという。連載の最終回は、新たな立場から2020年東京大会に関わろうとしている篠原の姿を描く。(前回は「『もう一本』の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ」)
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篠原信一は取材中、「根性論だけの指導だった。自分が指導者に向いていなかったせいでしょう」と、ロンドン五輪で史上初めて金メダルを獲得できなかった監督として敗因を負った。しかしこれも、シドニーでの誤審を「自分の心が弱かったから負けた」と、誰のせいにもしなかった姿勢と同様なのだろう。
12年ロンドン五輪前、国際柔道連盟はランキング制を導入。日本も変化への対応を迫られた。試合が増え、国際連盟は試合の格を示そうと日本に出場を強く求める。現場は、強化より試合に疲弊した。惨敗の背景を篠原は今でも口にしない。ロンドンで代表コーチだった井上康生・現代表監督は、篠原から引き継ぎ、16年リオデジャネイロ五輪で52年ぶりに全階級でメダルを獲得した際、取材にこう答えている。
「篠原監督時代の厳しさ、強い基礎があったからこそ次の方向を目指せました。本物の再起には長期的な強化が必要ですから」
井上の指摘通り、ロンドン後には監督続投要請もあったが「選手に申し訳ない」と、篠原は柔道界を離れる。翌年13年には、天理大も退職する。
解説から始まったテレビの仕事
「40歳になったのもきっかけでしたね。これからの人生をどうやっていこうかと考え、柔道を離れてみるのもいいんじゃないと。テレビの仕事は、最初は解説から。でも、そもそも監督として、選手にうまく伝えてやれなかった、話がうまくないわけですから、まさか自分がこういう道に行くとは思ってもいませんでしたね」
解説をしていると、ゲストやタレント、関係者に会う。そうしたなかで「テレビでやってみたら?」と、少しずつ声がかかるようになった。当初はスタジオに座るたびに、「まるで一般視聴者と同じ目線で」(篠原)セットの中にいる自分がどこかおかしかったのだという。あるバラエティー番組に出演した際、芸人たちの頭の回転の速さや、何気なく発したようで実は気の利いたコメント、何よりもそのすさまじいスピード感に圧倒されてしまい「面白いなぁ」とつぶやいていた。
柔道界で背負っていた、「誤審の銀メダリスト」「金メダルを取れなかった監督」そういった看板など何も関係がない。新しい勝負の世界を見るようだった、と振り返る。