エッセイスト・小島慶子さん 厳しい母 ずっと反抗期
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はタレントでエッセイストとしても活動する小島慶子さんだ。
――オーストラリア、香港、シンガポールと海外生活が長かったのですね。
「父は企業戦士、姉は寮だったので、子どもの頃は母と二人で過ごすことが多かったように思います。夜になると窓辺に座り、母の膝の上で隣家のヤシの木や南十字星を眺めながら母の歌う歌を聞いていました。ある日、夜中にミシッミシッと大きな足音がして母が見に行くと、数十センチの巨大なトカゲが出てきたんです。母が敢然と立ち向かっていったのを見て、すごいなぁと思ったのを覚えています」
――お母さんは厳しい方だったとか。
「母からは、風邪で熱を出しても『大丈夫?』なんて優しい言葉をかけられたことはありません。たるんでいると怒られる始末でした。子ども心にいつもどこか寂しく、10代は衝突ばかり。母も『慶子は3歳からずっと反抗期』と言うほど育てづらい子どもだった。実家を出てアナウンサーになり、精神的にも物理的にも自立したと思ったのもつかの間。放送を見た母からダメだしの電話やファクスがしょっちゅうでした。母の思い描く理想の娘にはなれなかった」
――お母さんとの確執を本に著しました。
「摂食障害や不安障害に悩み、専門家から母との関係を見つめ直すよう指導を受けてきました。親子でも、全く違う考えの私を理解し認めてほしかった。切実な思いをぶつけたつもりですが、世間では『毒親』が話題で、結果として両親を傷つけてしまったかもしれません。でも一切責められませんでした。理解はできなくても、母なりに受け入れてくれたのだと思います」
――家庭を築き海外移住を決めました。
「夫が仕事を辞めたのを機に3歳までの幸せな思い出のあるオーストラリアへ移住しました。空港で両親と別れの握手を交わしたとき、会うのは最後かもしれないと思った。以降は電話などで話す時に『ありがとう』『あなたの娘で良かったよ』と感謝の言葉が自然とこぼれました。思えば両親も戦時下の大変な時代を生き抜いてきた人。満たされない子ども時代を過ごしたのは両親も一緒だったと、離れてやっと気づきました」
――昨年11月にお父様が亡くなられました。
「最期は病室で父と二人きり、私の腕の中で旅立ちました。心拍が200を超え、熱は40度に上昇。命を使い果たそうとしているさまに、神々しさすら感じました。恐怖や悲しみより、母性にも似た気持ちがわき上がり『大丈夫、怖くないよ』と声をかけ続けました。旅立った父の顔は不思議と生まれたばかりの赤ん坊のようでした。一緒にいるときはしんどいことばかりでしたが、最後の最後に家族の絆を深められたのかもしれません」
[日本経済新聞夕刊2019年3月19日付]
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