タクシー運転20年余 忘れえぬ笠智衆さんの五十円玉鉛筆画家 安住孝史氏

ある夜、上野駅前で「浜松」と言って、乗って来たお客さまがいました。東京駅まで行けば、まだ新幹線に間に合う時間です。「浜松町ですか」と聞き直すと、ぶっきらぼうに「静岡の浜松」との返事。浜松市までは約250キロメートルあります。夜も更けますし燃料も足りません。そこで、ほぼ半分の沼津駅までという約束で、走り出しました。沼津駅までとお願いしたのには、もうひとつ理由がありました。深夜の長距離は料金が高額になることもあって、こわもてのお客さまを乗せる際には、どうしても心配が先に立ちます。沼津駅前なら交番もありますし、地元のタクシーもとまっているはずですから、何かあれば助けを求められます。

沼津駅に着き道中ずっと眠っていたお客さまを起こしました。すると上着の内ポケットから、とても分厚いお札の束のため折り曲げられなくなった財布を取り出しました。その時、浜松市の知らない場所まで行かずによかったと思いました。無造作に扱われる大金というのは目にしてしまうと怖いものです。直感的に勝負事でもうけたカネだろうと思いました。そういうおカネが、どこかよくないもののように見えてしまうのは不思議です。その後、お客さまが別のタクシーに乗り継いだのを見届けて僕も東京へと踵(きびす)を返しました。

落語「時そば」のような体験

わずかな金額を巡る話もあります。下町でお客さまを降ろす時のことです。その男性は640円の料金を払うとき、「細かい金ですまないねぇ」と、百円玉4枚と多くの十円玉を差し出しました。下町ですから小銭での支払いは珍しいことではありません。お客さまが立ち去った後で十円玉を数えると、どうしても2枚足りません。長く握りしめていたためか、少し湿って温かでした。単なる間違いなのか、ごまかされたのか。後者であれば、あまりいい気持ちはしませんが、それでもなんだか腹を立てる気にはなれませんでした。落語の「時そば」を思い出し常習かもしれないと考えながらもユーモアすら感じてしまいました。もちろん、だれにもまねをしてほしくはありませんが……。

下町育ちの安住さんにとって、柳橋は好きな風景のひとつだ

運転免許証は80歳を前にしたとき返納しました。最後の更新のとき隣の助手席に乗った教習所の職員から「90歳になっても運転できる」と褒められたのが、ちょっとした自慢です。

僕が絵を描く原点はやさしさです。単に風景を写し撮るのではなく人間への愛(いと)おしみ、人々の日常生活の哀歓を描きたいとの思いが強いのです。文章もそんな気持ちで書いてみたいと思います。どうぞ、おつきあいください。

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安住孝史
1937年(昭和12年)に東京・下谷に生まれ、浅草で育つ。画家を志し、建築科に通っていた大学を中退。70年に初個展。銀座のサンドイッチマン、アイスクリーム売り、眼鏡店員など様々なアルバイトを重ね、72年からタクシー運転手に。中断をはさみながら20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。現地でのスケッチやメモをもとに、消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続けている。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「鉛筆画の世界」(東京堂出版)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。共著多数。

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