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未完のレース

「もう一本」の心届かず 篠原さん、五輪監督で金ゼロ 篠原信一(3)

2019/3/20

軽量級初の連覇を果たした後輩に、悲運の銀メダリストはすぐ声をかけた。

「ヒロ、待っとってくれてありがとな。腹も減ったし、じゃメシ、行こか!」

会場の外で待っていた篠原の友人たちと、焼肉店に出掛けた。野村はこのシーンについて、以前にこう話している。

「食事中も誤審の話は一切しなかったし、誰にも気を使わせないように振る舞ってくれた。金メダルに一番近いといわれた先輩ですが、負けたときこそ人として、柔道家としての人間力が分かると教えられた」

誤審という不条理のなかで、篠原は周囲ではなく「自分」に目を向けた。

■ビデオ判定導入のきっかけに

勝負師のこうした振る舞いが歴史に刻まれるとともに、誤審を機にある制度も残された。

国際柔道連盟(IJF)は後に「ケアシステム」と呼ぶビデオ判定制度を導入する。2台のビデオカメラを用いて、2方向から撮影し判定をサポートする。画像はコンピューターに入り、状況判断の正確性を高めるものとして、07年ごろから各大会で使用され、10年には審判規定として改正された。

「投げた方が勢いあまって先に倒れた場合などは、ビデオ判定でも見逃される危険がある」という(18年12月、大阪市内のホテル)

五輪で起きたミスは、そもそも篠原がかけた独特の「内また透かし」を実際に見た経験のある審判は少なかったからではないか、ともいわれた。柔道界が目指す国際化と引き換えに、審判レベルの格差も誤審の一因とされた。シドニー五輪後、審判技術に関する研修会の回数は各大陸、国際連盟で格段に増えた。

「何でもかんでもビデオが解決してくれるわけではない」と、篠原は言う。

「柔道の技には流れがあります。例えば日本では、ただ相手を背中から寝かせればいい、などとは指導していない。技の切れ味や勢いも完璧な形を目指し、ビシッと投げろと指導する。だから、時には投げた方が勢いあまって先に倒れる場合もあるかもしれない。ビデオを見直すだけでは、それが見逃される危険もある」

そう言うと、少し厳しい表情を浮かべる。

たとえビデオ判定の導入によってミスを減らすためのシステムが確立されてもそれは外因でしかない。そうではなく自らの弱さ、内に目を向け誤審と葛藤してきたからだ。やがてその思いは、後輩に、五輪をはじめ世界で頂点を目指す若手に、どうしても伝えたい教訓に変わっていく。

シドニーに続くアテネ五輪では、男子柔道は3つの金メダルを獲得したが、世界的な潮流も、「組んで投げる」といった日本の正統にも変化は生まれていた。北京五輪で日本男子が獲得した金メダルは2つと減った。斉藤仁(15年に54歳で死去)は北京を最後に監督を辞して篠原に後任を託した。

■負けてもいいから自分から技かけろ

代表監督になってからも心の大切さを訴え続けた(08年12月の嘉納治五郎杯、東京都渋谷区)

ロンドン五輪を目指す日本男子監督に就任した後の稽古では、伝えたい何かがあるはずなのに、「コラ」「アホ」「ボケ」が飛び出す。不器用な男のスタイルは、若手には響いていないようにも映った。科学的なトレーニングも、データを基にしたコンディショニングも、選手のモチベーションを上げるメンタルマネジメントもない。ひたすら武骨に、限界まで追い込めと求める厳しい稽古だ。しかしそれでも、選手を叱責しているだけには聞こえなかった。

心技体は最初にくる「心」で引っ張れ。

負けてもいいから自分から技をかけろ。

シドニーから8年が経過していたが、それでも監督の心は現役にあったのかもしれない。コラ、アホ、ボケ、とは目の前の選手に後悔させたくない一心でかけている愛情であり、本当は自らにも浴びせた言葉なのだと聞こえた。

ロンドンを前に「ランキング制」が導入されたが、日本の対応は遅れた。試合、大会が増え続けるなか、月1回の代表合宿を行い、厳しい稽古を続けたが成果は出なかった。就任翌年の世界選手権はついに金メダルゼロ。特に最重量級における大不振は、文字通り、その重みの分だけ不振にのしかかった。12年のロンドン五輪、日本男子柔道は、史上初めて金メダルを獲得できないまま終わった。

今、仕事で代表合宿を訪ね、自分とともに一時代を築き、ロンドンではコーチでもあった井上康生代表監督(40)の指導法の取材もする。距離を置いて現場を見直すと、選手の指導とは、時代と、それも短いスパンで変化する時代の流れと選手の気質を敏感に悟って、対応していかなければならないのだと実感するという。井上の指導には、それがあるが、自分にはなかった、と。

「ただ根性論を説いただけでしたね。でもオリンピックのような舞台で金メダルを競う相手は、技術、体力、すべてがそろっている。そこまでいったら、もう何ひとつ差なんてないんです。だったら何で相手に差をつけてメダルの色を分けるの? 気持ちしかない。自分は、馬なら道産子でした。でもああいう馬が、厳しい先生方の指導と稽古で目覚め、とことん磨いてもらって、サラブレッドにはなれなくても芝を走るレースには出られたんですから。反骨心を持ってほしかったけれど、十分に伝えられなかった」

初めて立った五輪の舞台では、世紀の誤審に泣き、指導者となって戻った唯一の五輪で今度は史上初めて金メダルを獲得できなかった監督となる。

「駄馬がレースに出るまで鍛えてくださった先生方、選手、周囲に恵まれる運はありました。でも結局オリンピックに縁はなかったんでしょうね」

喜ばしい答えではなくても、長い時間自分と向き合い得た答えを、篠原は大切そうにそう表現した。

=敬称略、次週に続く

(スポーツライター 増島みどり)

篠原信一
1973年1月、神戸市長田区出身。中学1年より柔道を始める。高校まで無名だったが、天理大に入学してから頭角を現す。95年同大を卒業後、旭化成に入社。98年、99年、2000年の全日本選手権で3連覇したほか、99年世界選手権では100キロ超と無差別の2階級で金メダルを獲得した。日本男子が重量級で優勝したのは五輪、世界選手権を通じて8年ぶりだった。00年のシドニー五輪では、誤審によりフランスのダビド・ドイエに敗れて銀メダルに。内またを透かして投げたにもかかわらず、これが逆に相手の有効とされた(大会後、国際柔道連盟はドイエの有効にポイントを与えるべきでなかったと結論づけた)。01年の全日本決勝で6歳下の井上康生に敗れ、同年の世界選手権では銅メダル。02年に母校である天理大の監督に就任、03年に引退を表明した。08年には斉藤仁の後を継いで男子柔道日本代表監督に就任。直前の北京五輪で金メダル2つだった男子柔道の再建を託されたが、12年ロンドン五輪は初の金メダルゼロに終わった。責任をとる形で辞任した後は、タレント活動や後進の指導に取り組んでいる。身長190センチ、体重105キロ(現役時代は135キロ)。柔道6段。3男1女の父。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬季五輪などを現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる2018年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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