「酒造りは日進月歩」と強調する小泉平蔵社長

今回の取材では、日帰りバスツアーが訪れ、蔵を見学する光景や、神奈川県からの観光の帰りに売店で買い物する家族連れなどが見られた。小泉さんの気さくな話術が客の買う気をくすぐるようで、数種類の試飲を経て大吟醸の1升(1.8リットル)瓶などが次々と売れてゆく。

小泉酒造の日本酒の生産量は300石(1石は1升瓶100本)ほど。コンパクトな作りの蔵で3人の担当者が醸造にいそしむ。「20種類くらいの酒を造っています。典型的な多品種少量生産です」と小泉さんは笑う。醸造や貯蔵に使うタンクも小型のものが並び、量より質を追求する姿勢が垣間見える。

創業は1793年。以来、長く、鹿野山系の伏流水を使って酒を仕込んできた。江戸期は地元の酒として親しまれたが、一部は東京湾の水運で江戸の市場にも運ばれたようだ。「明治期には東京に直営で店を出していました。茅場町と田端だと聞いています」。明治期、積極経営で栄えたさまがうかがえる。

小泉さんは佐賀県出身。明治大学工学部卒という、酒蔵の当主には珍しい経歴の持ち主だ。明大OBとしての誇りを銘柄に刻んだのが「純米大吟醸 紫紺」。ラベルの色はもちろん、紫紺の明治カラーにした。「大学では電気工学を学び、1971年に卒業して、コンピューターを修理する仕事に就いていました」

76年、結婚した相手が小泉家の娘だった。その2年後、酒造りの世界に足を踏み入れた。当時、小泉酒造の杜氏は酒造の季節になると岩手県南部地方から訪れ、泊まり込みで酒を造っていた。「『浦霞』(醸造元は佐浦、宮城県塩竈市)で腕を振るった、伝説の南部杜氏といわれる平野佐五郎さんの弟子で、優秀な人でした。基本からすべてを教わりました」

酒造りに携わり始めてすぐに「感覚の世界だと直感した」という。工程ごとに五感を研ぎ澄まし、集中力を高めることに心血を注いだ。「例えば蒸しゴメの状態を確認するのに、コメを手のひらですりつぶすように握ります。触覚で瞬時に判断しないと間に合いません」。蒸し上がったコメの温度も湯気の具合で分かるようになった。「作業はすぐ覚えますが、感覚の精度を上げるのが大変でした」

原料のコメを蒸す甑(こしき)はクレーンでつり上げられるようになっている

20年前、小泉さんは杜氏に就いた。まず手がけたのが省力化だった。泊まり込みを前提とした作業工程を見直した。例えば麹(こうじ)菌を繁殖させる工程では蒸しゴメを入れる箱を8倍ほどに大きくし、菌の繁殖のムラをならす手作業を減らした。コメを蒸す甑(こしき)はクレーンでつり下げるようにして、蒸し上がったコメを運ぶ作業をなくし、醸造担当者を7人から3人に減らした。

「当時は多くの蔵が岩手県や新潟県から来る杜氏に頼っていました。それを自分たちだけで造る体制にできないか。日本醸造協会の機関誌などから情報を得て、東京国税局鑑定官室を訪ねて酒造りに詳しい人の意見をもらい、改革を進めました」。作業工程を見直した1年目に、東京国税局酒類鑑評会で賞を獲得、自信を深めたという。

小泉さんは南部杜氏協会(岩手県花巻市)の一員だ。岩手県外在住の南部杜氏としては草分け的世代に当たる。「1990年代、講習会に参加すると丁寧に教えてくれました。南部杜氏には技術を囲い込まない度量がありました」。ほかの杜氏集団が衰退する中、南部杜氏は全国に広がり、若手が続々と加盟している。「(南部杜氏自醸清酒)鑑評会にも必ず出品しています」