2019/3/16

「吉田茂首相はシルク製の肌着を注文されていました。もっとも首相本人の来店はなく、秘書の方がみえていたようです。歌舞伎座が近くにあるためか、17代目中村勘三郎をはじめ歌舞伎界の方々からも多くの注文を受けていました」

――輸入品だけでなく、現在のような独自のネクタイを扱うようになったのはいつごろからですか。

「1932年(昭和7年)に店主となった養子で常吉に女婿でもあった市太郎のころです。旧制第一高校、東京帝国大学卒という経歴で、もともとは文学者になりたかったようです。洋書を参考にしてデザインを練り、京都の機屋を往復しました。今でいうOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けたのです。30年代後半には、ネクタイは帽子と並ぶ主力商品になりました」

ネクタイ店と知らずに、店構えを見て「最近はふらりと立ち寄られる中国人客が多い」と語る梶原社長

「太平洋戦争中も配給キップ制のもとで、シャツや下着などとともにネクタイを売っていました。1944年(昭和19年)12月にはネクタイ販売が禁止となりましたが終戦を経て、戦後復興期からの主力はネクタイです。現在まで常に100柄以上をそろえています」

――銀座4丁目に本店を構えるだけあって建築の意匠にも凝っていますね。

「1966年(昭和41年)に隣接する銀座三越と共同で再開発しました。田屋の部分は外装を漆仕上げにしました。商店建築では初めてだそうです。3階より上は三越さんの店舗という変則的な設計となりました」

「2010年(平成22年)の改装時には雑誌で公開コンペを実施しました。改装後は若者や女性など顧客層が広がりました」

店内に並ぶ田屋のネクタイ(東京都中央区の銀座本店)

――ネクタイについては現在、自社工場で手がけています。

「1989年(平成元年)、山形県米沢市で織物工場を設けました。デザインから生産、販売までを一貫して手掛けているからこそ、顧客のニーズを直接把握して、スピーディーな商品企画に反映することができます」

「米沢市は江戸時代から染織の技術が蓄積されており、熟練した職人も多い地域です。約1年かけて生産技術を確立して、高密度なシルク生地を製作できるようになりました。通常のネクタイ生地は表面に5色が3層になるように編み上げますが、米沢工場では12色、6層の多色織りを可能にしました。表も裏も見えない部分も織り込んでいます」

ネクタイの断面図。通常は3層(左)、田屋では6層(右)

――ネクタイの色に深みが出るのは分かりますが、生地が厚くなって絞めにくくなりませんか。

「1寸(約3.03センチメートル)間に700本以上を打ち込める極細糸を使用しています。素晴らしい風合いと締め心地を両立していると自負しています」

――最近のインバウンド(訪日外国人)需要増大の影響はいかがですか。

「事前にガイドブックで調べてからではなく、ネクタイ店と知らずに、店構えを見てふらりと立ち寄られる中国人客が多いです。無地やレジメンタルといった一般的な柄よりも銀座通りなどをデザインしたオリジナルタイが人気です。先日も1回で50万円ほど購入された中国人客がいました」

(聞き手は松本治人)

(下)流行を追わない銀座のネクタイ 3代続く顧客に磨かれ >>

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