福島・大堀相馬焼~乗り越えた危機の数だけ磨かれる
手から、地から(3)
福島県浪江町。ここはかつて大堀相馬焼という焼き物を作る産地でした。浪江一帯では、大堀相馬焼をお祝い事などに縁起物として贈り合う文化があったため、一家に一つはあると言われるほど地元に愛された焼き物です。しかし、東日本大震災により浪江町の大半が帰還困難地域となり、全窯元23軒が避難を余儀なくされました。今回は、過去に幾度となく危機を迎えつつも乗り越えてきた大堀相馬焼と、またもやそれに立ち向かう若き「松永窯」4代目の物語をご紹介します。
大堀相馬焼とは
大堀相馬焼とは福島県浪江町大字大堀一円で生産される焼き物を指し、3つの特徴があるとされています。1つ目は、陶器の表面に入る細かい亀裂に墨を塗りこんだ「青ひび」。焼きあがった陶器を窯から出す際、素材と釉薬の収縮率の違いによって生じるひび割れは「貫入音(かんにゅうおん)」と呼ばれる美しい音色を奏でます。2つ目は、狩野派の筆法といわれる「走り駒」。描かれる馬は左を向いており「右に出るものがない」という意味が込められ、縁起物として親しまれています。3つ目は「二重焼」。二重構造は温かいものを冷めにくくし、持ち手は熱くならないという機能性をもたらします。
「アイデア」で乗り超えた時代の転換期
江戸時代初期(1690年)に相馬藩士・半谷休閑の下男である左馬という人物によって創始されたとされる大堀相馬焼。相馬藩はこれを藩の特産品にしようと考え、資金援助や原材料確保、他藩の焼き物を規制するなど保護育成に努めました。その甲斐もあり、大堀の窯業は農家の副業として広がり、江戸時代末期には100戸を超える窯元が現れ、東北最大の産地となりました。しかしその当時、先ほど紹介した「青ひび」と「二重焼」という概念は持ち合わせていませんでした。
契機となったのは明治4(1871)年の「廃藩置県」。これにより相馬藩の保護政策廃止と交通の発達が重なり、安価で質の高い岐阜県・美濃焼が押し寄せ、窯元数は減少しました。美濃焼のみならず全国の焼き物が競合となった大堀相馬焼の職人たちは他産地との差別化、更なる付加価値向上を狙い、「青ひび」と「二重焼」を生み出します。美しさと使い手への思いやりによって昇華された大堀相馬焼は厳しい競争の中で再び人々の支持を集めました。
また、太平洋戦争も大堀相馬焼を永らく冬の時代へと至らしめました。これを救ったのは意外にもGHQのアメリカ人でした。彼らの間では、大堀相馬焼をお土産として持ち帰ることが流行し、アメリカでは「アイデアカップ」、「ダブルカップ」という愛称で親しまれ、アメリカ輸出の足掛かりとなりました。
バブルと東日本大震災
時代はバブル。大堀相馬焼のみならず全国の伝統工芸品が飛ぶように売れ、産業としての規模もこの時代にピークを迎えました。しかし、ここでの成長は例外的なものでした。バブル崩壊後、大堀相馬焼の売上は年々減少し、廃業する窯元も少なくありませんでした。
そんな中起きた東日本大震災。大堀相馬焼の産地である福島県浪江町の大半は原発事故により帰還困難地域となってしまいました。23軒あった全窯元が避難を余儀なくされ、現在は福島県内外で10軒の窯元が作陶を続けています。
大堀相馬焼に再び訪れた危機。この震災をきっかけに家業の大堀相馬焼・松永窯を継ぐことを決意し、新たな取り組みで伝統産業を盛り上げようと奮闘する松永窯4代目/ガッチ株式会社代表の松永武士(30)さんにお話を伺いました。
震災が原因ではない
松永さんは慶應義塾大学在学時、中国において医療の事業経営で起業し、自身も中国へ渡る計画を立てていました。震災が発生したのは渡航日の4日前。東京でTV画面越しに変わり果てた故郷を目の当たりにした松永さんは「一瞬他人事のようにも思えた」と話します。田舎の故郷にコンプレックスを抱え、東京への憧れとともに上京し、自ら切り開いた海外挑戦の矢先に起きた震災。混乱しながらも松永さんは中国へ渡ります。しかし、「自分にしかできないこともある。自分の大事なところも広げていかなくてはいけない」そう考えた松永さんは中国での企業経営を譲渡し、福島県西郷村に再築した松永窯へ戻りました。
福島に戻った松永さんの目には、当時の大堀相馬焼はどのように映ったのでしょうか。震災後、多方面から支援や応援が寄せられましたが、使い手として大堀相馬焼を買ってくれたのは福島の方々でした。「同じ被災地なのに」と複雑な表情で話します。
現在も厳しい状況に置かれる大堀相馬焼。その原因について尋ねると「震災が原因だとは思っていない。古き良き時代の味を占めてしまっている」とお答えしていただきました。「日本の文化的な産業をいかに稼げる産業にするか」をテーマに活動されている松永さんは、震災よりもバブル期の例外的な成功体験が新しいモノづくりの阻害要因になっていると考えています。
震災によって離散してしまった他の窯元との関係性について尋ねてみると、意外な答えが返ってきました。「むしろ良くなったのではないか? いい意味で土着性がなくなり、固執するものがなくなった。イノベーションを起こしやすい環境だと思う」。そう話す松永さんはプロダクトに特化したモノづくりに取り組んでいます。
大堀相馬焼の本質
そんな松永さんが手がけるブランド「IKKON」をご紹介します。ブランド名「IKKON」は日本語の「一献:酒を酌んで飲むこと」に由来し、お酒を最後の一滴まで味わいつくすための器とお酒の関係をデザインしていくことをコンセプトとしています。商品第一弾の「IKKON_ぐいのみセット」は大堀相馬焼の二重焼を活用し、内部のカーブが異なる3種類のぐいのみセット。同じお酒で味わいや香りの引き立ち方の違いを比べることが出来ます。
このブランドは決して大堀相馬焼を前面に出してはいません。一見すると伝統的な大堀相馬焼とは似つかないデザインですが、「IKKON」の裏テーマには「顔を立てる」ということが設定されています。「贈られる人のことだけでなく、贈る人の顔まで立てる」。まさしく、縁起物として地元で贈り合われる大堀相馬焼の本質と重なるのではないでしょうか。「IKKON」はグッドデザイン賞やアジアのパッケージ賞受賞など評価され、まさに「贈りたく、贈られたくなる」商品です。
松永さんはこの他にも宮城県・雄勝硯の削りかすを釉薬として利用したコラボ商品「黒照(くろてらす)」や3Dプリンターを活用した「バーチャルろくろ」の開発を手掛けるなどあらゆる角度から仕掛け続けています。「大堀相馬焼の課題は日本の焼き物全体に直結していると思っている。そこにダイレクトに影響を与えられるようになりたい」と語る松永さんの目は冷静ながら、熱くそして強く、未来を見据えていました。
私たちに出来ること
私は福島県郡山市で行われた復興庁主催の「Fw:東北 共創イベント(アイデアソン)」に参加してきました。お題は「大堀相馬焼が挑戦する継承の仕組みづくり」。全国から集まった参加者は4チームに分かれ、様々な視点から福島県の伝統的工芸品「大堀相馬焼」を盛り上げるアイデアを出し合いました。「Fw:東北Weekly」では、東京や東北各地で東北をテーマに各種イベントを多数展開(年間30本程度を予定)しています。あなたのアイデアが東北の活力になります。ぜひ参加してみてください。
IKKON HP: http://ikkon.life/
Fw:東北 Face Book: https://www.facebook.com/fwtohoku/
埼玉大学経済学部4年経営イノベーションメジャー Global Talent Program 2期生。トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラム5期生として、「スウェーデンから学ぶ、日本伝統工芸の再興術」をテーマに、スウェーデン・リンショーピン大学にて10カ月の交換留学(2016年8月~2017年6月)。秋田杉桶樽の工法を活用した「冷酒杯 乙」をデザインし、第37回秋田県特産品開発コンクールにて奨励賞を受賞。
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