熟成ブーム、肉の次はすし 50日寝かせたカジキの味
牛肉で定着した観のある「熟成」がすしにも広がり始めた。もともと魚肉はさばいてから数日間寝かせたほうがおいしくなると言われることが多い。多くのすし店が新鮮なネタを売り物にしている中、東京・二子玉川にある「すし 喜邑(きむら)」は10年以上にわたって熟成ずしで勝負している。
東急電鉄二子玉川駅から歩いて10分、住宅街の中にぽつんと店がある。昼夜同じメニューで、お任せの1コースのみ(税込み2万5千円)。
「喜邑」のカウンターに保冷ケースはない。熟成されたネタは木箱に並べられ、握る直前にまな板の上で切り分けられる。サクを見ても熟成したネタは種類の違いが分かりにくい。にぎりの前に出されるつまみも同様で、運ばれてきて説明を聞いて初めて、何が出されたのかが分かる。店主の木村康司氏の口癖は「見た目は良くないけれどおいしいのがいい」だ。
つまみとして人気なのが「ワタリガニの塩辛」。まずえたいの知れない見た目に戸惑う。だが、少しつまんで口に運べば、濃厚なうまみに驚く。作り方はかなり複雑だ。生きたままのカニを塩漬けにして数日間寝かせ、次に塩水で塩を抜く。さらに日本酒で洗う。胃袋、腸を別にして酒盗を作り、これに内子、カニミソを合わせ、ブランデーを入れて仕上げる。単に熟成させるだけでなく、一品に仕上げるには工夫が必要だ。仕入れの関係でいつもコースメニューの中に並ぶわけではないという。
「イカのワタ」は見た目はチョコレートのよう。凍っているのを舌の上で溶かしながら味わう。臭みを取るのが難しく、塩をふって1週間置き、これも塩水で塩抜きしてから5日間寝かせる。さらに冷蔵庫で2日間乾かし、味噌床に1週間漬ける。取り出して2日間乾燥させて、冷凍庫に入れて固めるという。こうした仕込みに毎日数時間かかるため、「豊洲市場に出かけるまで2時間寝られればいいほう」(木村氏)だという。
にぎりもいつも同じ魚が並ぶわけではない。
カンパチのにぎりが出されたとき、マグロの大トロかと思ってしまった。しかし、マグロは出さないといい、説明を聞いてカンパチであると認識する。内臓を取って血抜きをしたものを10日間寝かせ、傷んだ周囲を取り除き、塩をふって塩抜きを繰り返す。こうして熟成させると、マグロの脂ののった部分のようなピンク色になる。味わいも本来は淡泊なカンパチとは異なり濃厚。身はしっかりとしていて、長い時間をかけて熟成させているのに軟らかすぎない。
カワハギは4日間寝かせた。半透明な身の下にキモが透けて見える。木村氏は「シースルーすし」と呼んでいる。仕込みに特に手間がかかるのがキモの部分で、2時間かけて細かい血管を取り除くのだという。新鮮なものでも生臭さを感じさせやすいカワハギのキモだけに、ていねいな作業が必要になってくる。
コースを締めくくるのはカジキのにぎり。驚くことに50日間寝かせたものだという。少し濁ったようなオレンジ色をしている。最初は6キログラムあった身が、熟成作業で傷んだ部分を取り除く結果、最終的に1キログラム足らずになってしまう。さらに10日間熟成させることもできるが、「寝かせすぎると、どの魚も同じような味になってしまう」ので、最近は少し短めにして提供している。
熟成すしを提供できるようになるまでは、簡単な道のりではなかった。
開店は2005年で、当時は閑古鳥が鳴いていた。せっかく、いい魚を仕入れても、客が少なく腐らせてしまうことが珍しくなかったのだ。木村氏は「せっかく仕入れたのに捨てるのがしのびなく、腐りつつあったシマアジを開いてみたら背骨の周りが食べられそうな色をしていた」と当時を振り返る。おそるおそる口にすると、匂いは強烈だが、いままで味わったことのない深いうまみがあった。これがきっかけとなり、熟成すしに取り組み始めた。
まず、臭みを取り除くことから始めた。内臓から腐ると考えて、徹底的に水洗いして寝かせたが、匂いはなくならなかった。冷蔵庫に長期間置くことも考えたが、単に腐敗するのを遅らせるだけだと気づく。魚の重さで傷まないよう肉のようにつるしてみるなど、試行錯誤の連続だった。
数年間の実験で得た結論は水と血を徹底して抜くこと。新鮮な状態で塩につけて水分を吸わせ、その後、薄い食塩水で塩抜きをするという方法にたどり着く。血管はもっとやっかいだった。まるで脳外科医のような繊細さで、毛細血管を1本ずつ針でトゲを抜くようにして取り除くという。
2010年に肉の熟成ブームが起きたが、魚の熟成は知られていなかった。ある日、有名すし店の大将が通う店としてテレビで紹介されたのをきっかけに徐々に客が増え、13年に「ミシュランガイド東京」で、星2つを獲得したことでようやく日の目をみるようになった。
熟成をうたうすし店は増えており、木村氏も自身が開発した熟成法を惜しみなく公開している。だが、手間がかかりすぎることもあり、なかなかまねをするところは少ない。どれだけ手間をかけた熟成すしを提供できるかでおいしさが違ってくる、という職人の誇りを持って、木村氏はさらに磨きをかけていく考えだ。
(ライター 寺尾豊)
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