俳優・池田鉄洋さん 「遊びすぎてごめん」と言った母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優で演出家の池田鉄洋さんだ。
――お母様はスタイリストの仕事をしていました。
「愛媛から上京していろいろあり、30歳代半ばになって憧れていた世界に飛び込んだと聞いています。私や妹は職場に連れて行かれることもあって、母の下積み時代を間近でみながら育ちました。開けっ広げな性格で飲み歩くのが大好き。さみしがりやで聞き上手で恋多き女性でした」
――お父様は?
「広告マンの父はいわゆる昭和の男。遅くまで仕事で家におらず、話したり遊んだりした記憶はほとんどありません。母がもともと父との結婚に乗り気でなかったようで私が小学6年生の時に離婚するんですが、両親の話し合いには一部始終立ち会いました。当時の父は私にとって母が我慢している相手でしかなく、母を守らねばと心に決めていましたね。母は青春を取り戻したくて、華やかな仕事に挑戦したのかもしれません」
――ご自身が俳優の道を選んだことにお母様は?
「母も仕事で役者との付き合いが多かったからか、すごく喜んでくれていました。やがて仕送りできるようにもなりましたし、一緒に食事に行き、周囲の人が私に気付くと本当にうれしそうで。時に『気持ち悪い』なんて言われる私の役柄には不満そうでしたけどね。私が結婚したのが母の亡くなった後で、落ち着いた姿や孫をみせられなかったのはちょっと心残りですが」
――亡くなられる前の言葉が印象的だったとか。
「亡くなったのは私がテレビ番組の演出を初めて任された頃。撮影中に気付くと携帯電話に妹からの着信履歴がたくさん残っていて。仕事柄死に目にはあえないと覚悟していましたが、ああ旅立ってしまったなと。意識がなくなる直前に見舞った時の『遊びすぎてごめんなさい』が最後の言葉でした。本当につらそうな表情でした」
「確かに苦労はさせられました。母は男を見る目がないというか……。受け身で依存心が強く、父と別れて再婚した2人目のおやじも大変な人でしたし。母本人は『遊びすぎて』なんて言いましたが、今思えば、我慢してきた面があったんじゃないかと。一緒に飲んで話したかった。母の人生をいつか小説にしたいんですよ。伝えられなかった思いを届けるためにも」
――年月を重ねてお父様を見る目は変わりましたか。
「純粋でまっすぐな人なんですよね。何か伝えたいけれど方法が分からない。私も映画『笑顔の向こうに』で主人公の父を演じましたが、息子との距離感、ぎこちなさはそんな自分の親子関係を重ねた面があったかも。実父は私にとって反面教師でしかありませんが、似ているところもあり、どこかとぼけたような愛すべき存在。面白い生きざまをみせてくれた両親に感謝しています」
[日本経済新聞夕刊2019年2月12日付]
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