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米国放浪、廃業勧められ発奮 熊沢酒造6代目の意地 熊沢酒造 6代目熊沢茂吉社長(下)

2019/2/12

熊沢酒造 6代目熊沢茂吉社長

出稼ぎの杜氏(とうじ)による酒造りをやめ、営業を廃止して、新しい酒造りに乗り出した神奈川県茅ケ崎市の熊沢酒造。新しい酒が売り出せるまでの5年間を乗り切る手段として着手した地ビール事業は、1990年代後半の地ビールブームに乗って大当たりした。「地ビールだけにしたらどうか」とまで言われるようになったが、社長の熊沢茂吉さん(50)は「茅ケ崎に日本酒の熊沢酒造ありという歴史は残したかった」と語る。(前回の記事は「営業なくし杜氏は社員 湘南の酒蔵社長、逆転の経営術」)

■地ビール事業のパートナー探しにドイツへ

5年計画で製造に着手した日本酒ブランド「天青」を発売できるようになるまで、とにかく何か売るものがいる。日本酒との二本柱にすべく取り組んだのが地ビールだった。

もちろんノウハウはない。日本の地ビール第一号となった新潟のエチゴビールにも勉強に行った。大手ビール会社は、地ビールブームに目をつけてコンサルティングのような事業を始めていたが、「大手に依存するのは何か違うと感じた」。そこで熊沢さんは一人でドイツに行き、日本で地ビール事業の立ち上げを手伝ってくれる人を探した。

日本の文化に関心があり、大学でビール醸造を学んだドイツ人男性と知り合う。熊沢さんと同い年の若者だった。この男性と2人でドイツ国内を回り、様々な醸造所のビールを飲んでは「この味がつくりたい」と彼に伝えた。3種類に候補を絞り、茅ケ崎に2人で戻ってビールづくりを始めた。96年のことだ。

日本酒での苦い経験から、営業は廃止していたため、地ビールは最初から酒蔵の敷地内で直売した。味を知ってもらうため「試飲セットを出すようになった」。これがレストランやカフェへと事業を広げるきっかけとなった。

90年代後半の地ビールブームにのり、ビールは「飛ぶように売れた」と熊沢さんは話す。この間、日本酒は全く売れなかったが、「地ビールのおかげで会社はギリギリ潰れないところで踏ん張れた」と振り返る。

ブームはやがてしぼむ。地ビールも2年ほどで売れなくなった。このとき、地ビールに代わって会社を下支えしてくれたのが、試飲サービスに合わせてつくったレストランだった。さらに、意外な逆風がレストラン事業を本格的に拡大する契機となる。

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