2019/2/6

未完のレース

「中3でこう思いました。色々な人がいい顔をして近寄ってくる。このまま他人に流されたらあかん、と。自分の意見を持って、流されず、引っ張られずに水泳にちゃんと打ち込もう、そう決意したんです」

今でも輝きを放つ強い信念は、15歳から身に付けなくてはならなかった「鎧」(よろい)だったのかもしれない。

アトランタ五輪の400メートル自由形で決勝進出を逃した千葉(96年7月、予選レースの後)=共同

高校2年で夢をかなえた92年、バルセロナ五輪では違和感の中身が分かった。自己ベストを更新し決勝に進む。「流されてはいけない」と自分に誓った信念通り、バルセロナの「モンジュイックの丘」にある屋外プールで、高い目標を達成した。充実感にあふれプールから笑顔で上がり取材ゾーンに歩くと、最初のインタビューにショックを受けた。

「いやー、残念でしたね、そう言われました。決勝は端っこのコースではありましたが、私には満足感しかなかったので不思議に思っていると、次のリポーターには、メダルに手が届きませんでしたね、と聞かれる。でも私、メダルを取りたいと言っていませんでしたよ、と。その時感じたマスコミと自分、世間と自分との温度差に葛藤が生まれ、悪戦苦闘が始まったんだと思います」

同じバルセロナでは14歳の岩崎恭子が200メートル平泳ぎで金メダルを獲得。メディアの関心は岩崎へと一気に移る。「残念でしたね」「メダルが取れず惜しかったですね」と、日々言われるうちに、自分の努力や夢まで否定されるような思いがした。

千葉に限らず、多くの選手が疑問を口にする同じ場面がある。帰国の際、機内で「メダリストは首からメダルを下げて準備してください」と担当者から声がかかり、「まずは、メダリストから、その後他の選手が降りてください」と指示される。

「メダルが取れなかった反省をしながら降ろされるようで、喪失感でいっぱいでした」と、選手たちの思いを千葉は代弁する。メダリストとそうでない選手。真二つに区分される扱い方は、メディアによる「五輪格差」とも呼べる。この事態に選手とメディアには深い溝が生まれ、今も溝は埋まっていない。深まったのかもしれない。

米国は厳しい練習も自分のため

96年アトランタ五輪を前に進路を決める際、アメリカへの留学を決断する。今のように、その競技の最高峰でトレーニングし海外を転戦するなど例がなく「絶対に失敗する」「リスクが大きい」などと、関係者からも賛同は得られなかった。米国で言葉の壁に苦しむ一方、日本の根性論、コーチとの上下関係とは異なるスポーツの姿を知る。

4時間泳ぎ続けるような日本の練習と違い、米国では1時間半で全て終わる。オン・オフの切り替えが明確で、自立した選手として扱われる。厳しい練習は自分のためだからこそ、心から楽しもうと思えるようになった。

「楽しむ」は決して気軽に口にした言葉ではなく、米国留学中、言葉の壁に苦しみ、それを打破し、彼らがなぜ大舞台で結果を出せるのかを間近で懸命に学んだ時、ようやく分かった答えのひとつでもあった。

アトランタ五輪では競泳女子の主将を任され、若い選手に自分がバルセロナで味わったような思いはさせたくない、プレッシャーも楽しんで、とリードした。女子チームはメダルを獲得できなかったが「一切手は抜いていないし、楽しかった」と顔を上げた。

すると税金泥棒、親の顔がみたい、メダルなしの反省がない。そんな批判を、1人で直接浴びる結果となってしまった。

「今で言う大炎上ですよね。私も、テレビで言わなくたっていいのに、じゃあ、税金返しましょうか、なんてけんか腰でさらに大炎上。今のようなSNS社会だったら、どんな騒動になっていたんでしょうね」

千葉は他人事のように笑った。

引退後、スポンサーとは無縁のイベントでも、地方の小さなスイミングクラブで、トップ選手相手ではなくても水泳を教え、全国を回って講演を続けて来た理由は、メダルや周囲の評価ではなく、「楽しむ」理由は自分自身で探せると伝えたかったからだ。

二十数年前、メダル偏重に敢然と異を唱えた千葉に対し、五輪報道はどう変わったのだろうか。

=敬称略、次週に続く

(スポーツライター 増島みどり)

千葉すず
 1975年8月、横浜市出身(実家は仙台)。中学生で五輪を目指し、強豪の大阪イトマンスイミングスクールへ単身留学した。90年の日本選手権で自由形3冠。91年世界選手権で400m銅メダルを獲得した。世界的に選手層が厚い自由形で、日本女子のメダル獲得は五輪・世界選手権を通じて初の快挙だった。92年バルセロナ五輪(200m自由形6位、400m同8位、メドレーリレー7位)と、96年アトランタ五輪(200m自由形10位、800mフリーリレー4位)に出場。2000年シドニー五輪に挑戦するも日本選手権で優勝しながら落選した。同年10月の現役引退後は、アテネ五輪200mバタフライ銀メダリストの夫・山本貴司氏(40=近畿大水上競技部監督)と2男2女を育てながら、島根県浜田市三隅町の「ユネスコ無形文化遺産石州半紙PR大使」を務めるほか、講演活動や障がい者と健常者を一緒に指導する独自の水泳教室も行う。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

アスリートの引退後をたどる「未完のレース」では、柔道の篠原信一さんも取り上げています。併せてお読みください。

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