マジシャン・マギー司郎さん 「同じでなくてよい」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はマジシャンのマギー司郎さんだ。
――兄弟姉妹9人の大家族だったとか。
「僕は上から数えて7番目、男では四男だから司郎。タネも仕掛けもない名前です。父は新しい事業に手を出しては失敗ばっかりで、母が家族を必死に支えていました。子だくさんで貧乏で、生きるのに精いっぱいでしたね。家族の食事はいつも早いもの勝ちです。納豆がどんぶりいっぱいあっても、油断すると5粒ほどしか残っていない。たまに生卵が出ると、箸で白身をずるーっと持っていかれる。でも、上が下の面倒をよく見る仲のいい兄弟でした」
――貧しさも楽しんだ?
「小学生の時、クラスで給食用コップを買うのに、僕だけお金が用意できなかった。後で父が買ってきてくれたコップは、みんなのより小さくて。からかわれるし、恥ずかしいし。でも、洗ったコップが給食室から戻ってくると一目で分かるんです。母は『みんなと同じでなくて良かったじゃない』と喜んでくれました。言い訳でもそれがうれしくて、ずっと心に残りました。母は小太りで胸も豊か。体が弱かった僕をむぎゅっと抱きしめてくれた。夏は汗まみれで嫌だったんですが、僕を全身で守ってくれました」
――16歳で上京。キャバレーに住み込み、その後マジシャンに転じました。
「勉強はできないし、手先は不器用。高校に行けずぶらぶらしていたんですが、東京なら何とかなるだろうと、家出しました。ありついたのはバーテンダーの職です。閉店後にソファをずらっと並べて従業員が寝泊まりする生活です。よく、下積みが大変でしたねと言われますが、そんなこと考えもしなかった。もともとが貧乏な大家族だったので、苦になりませんでした」
「プロのマジシャンとして初めて舞台に立ったのは20歳の時、ストリップ劇場です。お客さんからは『引っ込めっ』と怒鳴られる。下手な手品では間が持てないので、『すみませんね』と茨城のイントネーションでごまかしながら時間を稼いだ。それがうけ、自分の芸風になりました」
――家出後お母さんとは。
「たまたまテレビで僕を見た母が放送局に電話を掛けてきました。家出から16年ぶりに話すと入院中だと言う。慌てて見舞いに行くと、廊下を歩く僕の足音を聞いただけで、『司郎か』と声を掛けてくるんです。母親ってすごいですね。もう30歳を超えていましたが、いつまでたっても心配な四男坊だったんですね」
――今は12人の弟子を抱えていますね。
「僕の芸は、あんなの手品じゃないとよく非難されましたが『ひとと同じでなくていいんだ』と自分に言い聞かせました。弟子の中には僕より上手なのもいます。『それ、どうやるの』とか教えてもらっていると、子供のころの大家族のようです」
[日本経済新聞夕刊2019年1月29日付]
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