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未完のレース

「五輪落選、理由知りたい」 千葉すずさんが開けた扉 千葉すず(2)

2019/1/30

泣いて、歯を食いしばって勝利しても、出られないオリンピックがある。夢を信じて泳ぎ続けた少女には出場以前に「選考」という壁が立ちはだかる日が来るとは、想像もつかなかったに違いない。

代表選考会を兼ねた2000年4月の日本選手権では、200メートル自由形で優勝したが…(写真は準決勝、東京辰巳国際水泳場)=共同

世界的に見れば競争の激しい種目、自由形において、17歳で1992年バルセロナ五輪に初めて出場を果たし、21歳で迎えたアトランタ五輪(96年)では女子チームの主将も務めた。アトランタが終わり、拠点にしていたアメリカ・ゴールデンウエストスイムクラブに戻ったが、引退を決めコーチとなる。そうした毎日を2年ほど過ごした頃、コーチのバッド・マカリスターや友人たちに「シドニーは狙わないの?」と聞かれた。

「もう水泳はいいねん」と返事をする。シドニーでは25歳、10代のような練習も難しく、若手の台頭もある。不安要素ばかりだった。しかしここで、欧米と日本の、決定的な発想の違いを学んだという。

「自分ができるかできないかではなく、やるかやらないか、じゃないかと、コーチや友人はシンプルに言う。年も取った、体力も落ちた。でもやってみようと」

シドニー五輪に向けて復帰し、前年99年の日本選手権で100、200メートルを制して当時の日本新記録を樹立し周囲を驚かせる。2000年、五輪選考会を兼ねた日本選手権でも、日本水泳連盟(日本水連)が、シドニー代表選考の一基準としていたFINA(国際水泳連盟)指定の五輪A標準2分0秒54を突破して200メートル自由形で優勝した。

しかし代表から落選した。

■選手からの異議、スポーツ界に衝撃

「水泳は公平なスポーツのはずなのに、スポーツなら1、2位の結果が全てなのに、日本では別室で会議が行われて、次の日の代表発表まで誰が選ばれるか分からない。そういうスポーツでもあったんです」

たった1人の勇気ある行動がスポーツ界を動かした(2000年8月、スポーツ仲裁裁判所の裁定を受けて記者会見にのぞむ千葉)

アメリカに戻るとマカリスターコーチをはじめ、チームメートたちが「優勝したのになぜ落選するの?」「選ばれない理由を説明して」と、まるで自分の話のように迫ってくる。水連に聞いたって意味がない、そんな思いを吐露すると、「落選の理由を聞かなくては、レースもオリンピックも終わらない」コーチにそう言われた。

当時、日本には、代表選考をめぐる紛争、問題を扱う場はなかった。疑問があっても、選手は黙って結果を受け入れる。それが当たり前で、ほかに手段はないと思われていた。しかし、千葉は立ちあがった。アメリカでアドバイスを受け、スイス・ローザンヌに本部を置く「スポーツ仲裁裁判所」(CAS)に、日本水連の選考基準のあいまいさをたった1人で訴えた。日本人として初めて、選考基準に堂々異を唱えた25歳の女性の行動は、「フジヤマのトビウオ」古橋広之進・日本水連会長(09年80歳で死去)、日本のスポーツ界に大きな衝撃を与えた。

CASへの訴えは、まず、日本水連がそれを受諾するかどうかが起点となって調査がスタートする。選手が真っ向から選考に異議を申し立てたため、古橋会長は当初、調停には応じないのではないかといった声もあった。しかし日本水連は調停を受け入れた。

この時、千葉とは反対の、日本水連側の代理人となった上柳敏郎弁護士(東京駿河台法律事務所)は今回の取材で、「千葉さんが日本のスポーツ界にもたらしてくれた功績ははかり知れない。私は、それは、金メダルと同じ功績だったと思っている」と、スポーツ史の証人として改めて敬意を表した。

■開かれた「ブラックボックス」

上柳を代理人とする日本水連側は、千葉からの訴えが実は提訴期限を過ぎて(ルールでは訴えは21日以内)いたのを承知していたという。水連がそれでも、と、訴えに対応したことで、「選考基準」という、それまでのブラックボックスが開かれ、以後、その透明性をめぐって選手は声を上げられるようになった。また、水連を含む各競技団体が、五輪に限らず選考基準の明確化に力を注ぐのは義務となった。

千葉の勇気ある訴えから、03年には、日本でもこうした調停を行える場所を常設すべきだとの判断で、「日本スポーツ仲裁機構」が設立され、CASに訴えるよりも身近に、国内で選考に関連する紛争等を扱えるようになった。これも、25歳が全力を注いで「オリンピック」に残した功績だ。

千葉がシドニー五輪代表となる決定は退けられたが、一方でCASは、選考基準のあいまいさを指摘し、日本水連に対し訴訟費用の負担を言い渡した。3度目の五輪代表にはなれなかった。しかし、上柳が指摘した「金メダルと同じ」輝きは、スポーツ界が不祥事に揺れる今こそ改めて存在感を増す。

「もし日本にいて、もし日本で典型的な、何を言ってもどうせ無理だ、といった考え方をしていたら、ああいう行動は取れなかったと思います。私が、CASに行こうと決めたのは、すずがこれで諦めたら、後に続く選手も同じ結果になる、それでいいのか、と向こうの友人や、ホームステイ先の両親に言われた時でした。功績だ、と言われるほどのことをしたとは全く思っていませんけれど……」

スイミングに通う4人の子を持つ母親は、そう言って笑みを浮かべた。

=敬称略、次週に続く

(スポーツライター 増島みどり)

千葉すず
1975年8月、横浜市出身(実家は仙台)。中学生で五輪を目指し、強豪の大阪イトマンスイミングスクールへ単身留学した。90年の日本選手権で自由形3冠。91年世界選手権で400m銅メダルを獲得した。世界的に選手層が厚い自由形で、日本女子のメダル獲得は五輪・世界選手権を通じて初の快挙だった。92年バルセロナ五輪(200m自由形6位、400m同8位、メドレーリレー7位)と、96年アトランタ五輪(200m自由形10位、800mフリーリレー4位)に出場。2000年シドニー五輪に挑戦するも日本選手権で優勝しながら落選した。同年10月の現役引退後は、アテネ五輪200mバタフライ銀メダリストの夫・山本貴司氏(40=近畿大水上競技部監督)と2男2女を育てながら、島根県浜田市三隅町の「ユネスコ無形文化遺産石州半紙PR大使」を務めるほか、講演活動や障がい者と健常者を一緒に指導する独自の水泳教室も行う。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師

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