西川りゅうじん バブル語「アッシー」生んだある会食
編集委員 小林明
「アッシー」「ジモティ」などの命名者で、人気ディスコ「ジュリアナ東京」のPRや六本木ヒルズの企画立案、吉祥寺や柏の地域活性化にも携わってきたマーケティングコンサルタントの西川りゅうじんさん。一橋大学在学中に起業して年商1億円を稼ぎ、創業以来、赤字になった年は一度もないが「バブル崩壊時には苦しい試練も味わった」と振り返る。前回に続き、インタビューの後半を掲載する。
モノが売れにくかった時代、学業や課外活動に熱中
――1浪後、1980年に一橋大学経済学部に入学しました。
「関西から上京し、教養課程のキャンパスがあった東京・小平市で新生活を開始。親には負担をかけたくなかったので、裸電球がぶら下がるだけの部屋に下宿しました。トイレはくみ取り式の共同で風呂はなし。79年に第2次石油危機に見舞われ、モノが売れにくかった時代。85年のプラザ合意で日本は円高不況に突入します。私が今まで曲がりなりにもやってこれたのは、バブル前の厳しい時期に学生時代を送り、起業したことが幸いしたと思っています」
――大学ではどんな活動をしましたか。
「何をしても自由ですから、水を得た魚のように学業や課外活動に取り組み、先生や学友から学ぶことの楽しさを教えられました。経済学の関恒義先生、国際政治学の野林健先生の各ゼミで幹事長を務め、日本マーケティング学会を創設した田内幸一先生、ハーバード大学ビジネススクールでも教壇に立っていた竹内弘高先生からも直接指導を受けました」
学内誌・一橋祭……、津田塾大との「バスハイク」も
「学内誌『一橋マーキュリー』では部長、一橋祭運営委員会では副委員長を務め、作家の椎名誠さんの講演会、一橋祭で松任谷由実さんのコンサートを開催。このほか津田塾大など女子大の学生と一緒に高尾山に行く『1000人バスハイク』も企画しました。森ビルから奨励金をいただき、社会工学のシンポジウムを開催したこともあります。ちなみに『一橋マーキュリー』は作家の杉山隆男さんや田中康夫さん、一橋祭運営委員会は日本製鉄の初代社長に就任する橋本英二さんや日本テレビの敏腕プロデューサーの土屋敏男さんらを輩出したことでも知られています」
人脈を広げる修行とは? 臆せずに声をかけ、礼状を出せ
――学生時代に何か心がけたことは。
「シャイだった自分を変えるために課したことが2つありました。1つ目は初対面の人にも臆せずに声をかけること。飛行機でも新幹線でも、隣の人には必ず話しかける。名画座にもよく通いましたが、両脇の人に必ず声をかけました。最初は不審がられても、映画好きならば次第に打ち解けてきます。これで様々な人と知り合いました。2つ目は会った人には必ず礼状を出すこと。学生新聞のインタビューでお会いした大正製薬会長の上原明さん(当時社長)とはそれがきっかけで40年近くもお付き合いしていただいています」
――全国の大学のメディア系公認団体幹部による交流組織を立ち上げ、「学生経団連」と話題になりましたね。
「各大学で学園祭、学内誌、広告、映画、放送、企画プロデュースなど団体の活動が盛んになってきた時期でした。幹部による交流会『キャンパス・リーダーズ・ソサエティ』(CLS)が結成され、私が初代の代表幹事に選任されました。この動きが様々なメディアに取り上げられました」
「同組織ができたことで色々なメリットがありました。講演会やコンサートの警備、音響、照明、パンフレット編集、映像制作などノウハウを互いに学ぶことができたし、企業広告もまとめて取れるようになった。イベントに出てもらう講演者やアーティストの日程、出演料などの情報共有にも役立ちました。CLSにはリクルートホールディングス社長の峰岸真澄さん、USEN-NEXT HOLDINGS社長の宇野康秀さんら後にメディア業界で活躍する方々も多く参加していました」
「学生経団連」が話題に、大学メディア系団体で交流組織
――人脈が広がりますね。
「イベントなどを通じて早稲田大生だったサンプラザ中野さんや青山学院大生だった川島なお美さんらとも出会いましたし、グロービス経営大学院学長の堀義人さんとは彼が京都大の学生時代に六本木のディスコ『エリア』で知り合い、後に産官学の朝食勉強会を一緒に主宰することになります」
――大学時代は年商1億円を稼いでいたとか。
「これも人とのご縁のおかげです。私が稼いだというより、マーケティングという考え方を実践する役割がたまたま回ってきただけ。大学で理論を聞きかじっていたこと、イベントのまね事をしていたことが功を奏し、企業の市場調査、商品開発、PR、施設開発を請け負い、自然に依頼が増えてきました。就活して大手企業から内定をもらいましたが、スタッフを雇用していた責任もあり、結局、就職せずに事業を本格化します」
女性キャスターの手帳、男性名が車種別に分類
――「アッシー」「メッシー」の流行語はどうやって命名したのですか。
「実はどちらも自分の情けない体験から生まれた言葉です。私はテレビのニュース番組『CNNデイウォッチ』でキャスターをしていましたが、別のある特番の打ち合わせを兼ねて某女性キャスターと食事する機会がありました。帰り際、彼女がバッグから手帳を取り出したので、何だと思ったら『電話をすると自宅まで送ってくれる優しい殿方のリストです』とおっしゃる」
「チラリと中身が見えたのですが、なんと数十人の男性の名前がフェラーリ、ベンツ、ポルシェ、BMWなど車種別にズラリと分類されていた。『国産車の私はまさか関係ないだろう』と思ったら、付け足しのように『その他』の欄に書いてある。『男はただの足なのか……』。彼女を自分の愛車で送りながらしみじみとこう思った瞬間、『アッシー』という言葉がひらめいたんです。一方、『メッシー』とは女性にメシをおごってばかりで関係がいっこうに進展しない私のような男のこと。別名『財布男』とも呼ばれています」
試練から救った言葉、「稼ぐに追いつく貧乏なし」
――バブル崩壊時には試練も体験したとか。
「91年にディスコ『ジュリアナ東京』をPRした頃にはバブル経済はすでに崩壊していました。長銀も日債銀も拓銀も山一証券も破綻。資産デフレが起こり、所有する不動産の実勢価格も下落。その時点ですべて売却すれば債務が約4億円を超過するという事態に陥りました。しかもインフレ対策で金利も大幅に上昇。会社の借入金利は約3%から約9%に上がり、生きた心地がしませんでした。当時、資金繰りに行き詰まった経営者の自殺も珍しくなかった」
「明け方、自宅の書棚の前にひざまずき、経済史の教科書を読み返しながら、朝日をぼうぜんと眺めていると、ふと頭に浮かんだのが、祖母が言っていた『稼ぐに追いつく貧乏なし』ということわざ。支出以上に稼げば貧乏することはないという意味です。考えてみれば、私の会社は創業以来、黒字続きで元本も金利も返済は一度も遅れたことがない。『五体満足で好きな仕事ができるのだから、自分は幸せ者。悩む暇があるくらいならもっと仕事しよう』と気持ちが吹っ切れた。以来、夢中で働き続けていたら売り上げがグングン伸び、いつの間にか借金を完済していました」
――若者にメッセージを。
「感動とは『感じて動く』と書きます。人生二度なし。自分を信じて、感じたら動き、人生を存分に味わってください」
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