西川りゅうじん 客の心つかむ商才、原点はアイス売り
編集委員 小林明
「アッシー」「メッシー」「ジモティ」などの流行語で知られ、ゆるキャラ「せんとくん」のPRや六本木ヒルズの企画立案など多分野で活躍する西川りゅうじんさん(59)は一橋大学在学中、全国の大学メディア系サークルの横断組織を旗揚げしたほか、大学生として起業して年商1億円を稼ぐなど独自の才覚と行動力で人生を切り開いてきた。「小中高ずっと落ちこぼれだった」という生い立ちから、大学受験、学生時代の起業、バブル崩壊期に体験した苦労など過去の軌跡について振り返ってもらった。前半、後半に分けてインタビューを掲載する。
幼稚園時代から調整役、「混ぜたらええやん」
――どんな少年時代でしたか。
「『大丈夫かな?』と家族が本気で心配するほど、いつも笑っていたようです。父は関西で包装資材の製造販売を手がける中小企業の経営者。母は専業主婦。4つ下の弟との4人家族です。決して貧しくはありませんでしたが、ぜいたくをしないという家風でした。ただ、幼稚園の頃からクラスの調整役になっていた気がします」
「たとえば幼稚園の運動場では男子と女子が遊び場を取り合い、ケンカが絶えなかった。すると、私が『混ぜたらええやん』と男女で一緒に楽しめる遊びを提案したりする。三つ子の魂百までということわざ通り、これが今の仕事につながっているのかもしれません」
――国立の大阪教育大学附属池田小学校、中学校、高校に進みましたね。
「知能テストの結果が良かったらしいんです。そこで先生から受験するよう勧められ、わけもわからずに受けたら合格してしまいました。でも中学では全体の約3分の2、高校では半分くらいの生徒しか進級できません。他の公立や私立を受験するためには、提出する内申点が学内での成績になるのでかえって厳しい。私は落第ギリギリの超低空飛行でしたが、運良く高校まで進めました」
高1でバレー部を挫折、ベースギターに熱中
――熱中したものは何ですか。
「足だけは速かったので運動会の徒競走やリレーは楽しみでした。自然が好きでカブトムシやクワガタを採ったり、幼虫から成虫になるまで育てたりしていた。ラジオ製作や鉄道模型、鉱物収集にも凝りました。中学時代になるとジャンプ力を買われて、バレーボール部に入ります。でも高1の時に足首をひどく捻挫してしまい、残念ながら挫折。その後はバンド活動に目覚めました」
「憧れたのはバンドのジェフ・ベック・グループやリターン・トゥ・フォーエヴァー。ロックとジャズをミックスしたクロスオーバーやフュージョンが大好きで、ベースギターの速弾きや親指でたたくように弾くチョッパー奏法をマネして練習していました。そうでなければレコード店や楽器店、ライブハウスやディスコに入り浸る日々。高校でバンドを結成し、学外では大学生やセミプロと一緒に演奏。目立っていたためか、芸能プロダクションやレコード会社の人からスカウトされ、調子に乗っていました」
模擬店でアイス売り、6掛け仕入れ、廊下封鎖、出張販売…
――やはりクラスでは調整役だったんですか。
「授業中はいつも寝ているヒネた学生でしたが、学園祭ではなぜか中心にいました。クラスでアイスクリームなどを売る模擬店を開くことになると、不思議にアイデアが次々と浮かんでくるんです。たとえば、仕入れと言っても、他のクラスではせいぜいスーパーで買う程度。アイスを100円で仕入れて110円で売っていた。でも私は問屋の存在を知っていたので直接掛け合い、六掛けの60円で仕入れ、売れた分だけ代金を払えばいいという条件をのんでもらった。元金は不要でどこよりも安く仕入れられる。20円の利益を乗せても売値は80円。もう勝負ありですよね。アイスは飛ぶように売れました」
――なるほど、面白いアイデアですね。
「実はバンドでライブハウスを使った時、飲料や食品を納入する問屋がいることを知っていたので、それが役立ちました。お店のレイアウトも工夫しました。教室前の廊下の部分をすべて封鎖してレジスペースにしたんです。これだと通行客は必ず教室内に入るから客足が途絶えない。クラスの女子にクーラーボックスを持たせて出張販売もしました。結構、利益が出たので担任に『おまえ、商売の才能あるぞ』なんて初めてほめられました。ビジネスの仕組みを創ることをマーケティングと呼ぶのを知ったのはそれから数年後のことです」
現役受験は失敗、「東大に行く」と一念発起
――受験準備はどうでしたか。
「バンドで世に出たいと思っていたので、勉強はほとんどしていませんでした。地元の国立大学を受験したものの当然ながら不合格。音楽性の違いからバンドのメンバーもバラバラになってしまった。ライブに来てくれていた憧れの女性も高3になると受験勉強で来なくなり、関西の名門大学に現役合格します。彼女の家を訪ねても『あんたは世の中、分かってへん』とドアをガシャン。何を目指していいのかも分からず、魂の抜け殻のような状態で高校を卒業しました」
――どうやって立ち直ったんですか。
「街中で偶然、東大や京大に受かった同級生に出会うと、国家公務員や医師やエンジニアを目指すなどとうれしそうに夢を語っている。そんな姿を見ているうちに、沸々と悔しさがこみ上げてきた。そこでお気に入りだったDCブランドのシャツをビリビリに引き裂き、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』と紙に書き、『東大に行くぞ!』と一念発起。おしゃれをやめてジャージーに着替え、コンタクトレンズもはずし、牛乳ビンの底のような分厚い眼鏡をかけました」
「大阪の予備校を中心に通い、起きている間はずっと勉強に専念すると、成績がグングン伸びました。もともと数学や英語は得意でしたが、苦手だった現代国語・古文・漢文、世界史も初めて面白いと感じた。吉田兼好、松尾芭蕉、十八史略も読んでみて、心に染みました」
東大模試は合格圏ギリギリ、自分向きだった一橋
――東京大学が志望だったのに、なぜ一橋大学を受けたんですか。
「夏の東大模試は社会が1科目だけだったので合格圏内。でも冬の模試は実際の試験と同じように2科目あったので、結果は合格圏ギリギリの判定だったんです。2年も親のスネをかじるわけにはいかず悩みました。たまたま祖母がウチに来ていた時、国立大学のガイドブックを眺めていたら一橋大学の話になった。2次試験科目を見ると、好きな数学が数2Bまであり、しかも得意の英語の配点が高く、社会の記述試験は1科目だけ。まさに自分のためにある大学だと感じました」
――手応えはありましたか。
「自由な校風が合ったのか、リラックスして受けられました。慶応・経済、早稲田・政経などにも合格できましたが、結局、国立で授業料が安価な一橋大学(経済学部)に入学します。一橋の合格発表の前日は飯田橋の旅館に泊まりました。翌朝、周辺を散歩していると、偶然、靖国神社の境内に迷い込み、そこで戦死した同世代の若者の辞世の句や家族に宛てた手紙を読んでいるうちに涙がはらはらとこぼれ落ちてきた。『豊かな世の中で何不自由なく暮らしてきたのは彼らのおかげ。自分は何もわかっていなかった』と衝撃を受けたんです」
「生きていること自体が有り難いことに思え、なぜか世界が金色に輝いているように感じました。一橋大の国立キャンパスで週刊誌の合格者インタビューを受けた時、『受験の合否なんてどうでもいい。生きてるだけでもうけものなんですよ』なんて答えたら、記者がポカンと不思議そうな顔をしていたのを覚えています」
(次回は1月25日に公開。一橋大学時代の起業、流行語「アッシー」「メッシー」の由来、バブル崩壊で味わった試練などについて語ってもらいます)
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