ジェシー・ハリス 開かれた米国の都会派ポップス紡ぐ
米ニューヨークのシンガー・ソングライター、ジェシー・ハリスが来日した。2018年にはジャズギターの最前線を行くジュリアン・ラージのCDをプロデュースし、新進ジャズ・ソウル歌手のキャンディス・スプリングスに曲を提供するなど、ミュージシャンの信頼も厚い。
いつものようにギターをつま弾きながら歌うハリスを、彼の最新アルバム「アクアレル」にも参加している3人の異才がサポートした。ギターとコーラスはシンガー・ソングライターでもあるウィル・グレーフェ、ドラムはジェレミー・ガスティン、ベースはブラジル人のリカルド・ディアス・ゴメスだ。ゴメスは現代ポップミュージック界の最重要人物ともいえるブラジルの大スター、カエターノ・ヴェローゾのアルバム数作にも参加している。
ハリスがさりげなく歌い始める。そのまま淡々、粛々といった形容がぴったりのステージが続くのだが、そんな演奏の奥から、大人の都会派ポップスの滋味や機微とでも呼ぶべきものが浮かび上がり、観客の中にスーッと心地よく入り込こんでくる。
ハリスは1969年生まれの生粋のニューヨーカーだ。アイビーリーグの名門コーネル大学で文学を専攻し、卒業後に音楽の道に進んだ。ノラ・ジョーンズに提供した「ドント・ノウ・ホワイ」でグラミー賞の最優秀楽曲賞を受賞して知名度を上げ、これまでに趣向を凝らしたアルバムを15作余り発表している。
幅広い音楽的な好奇心や文学的な素養をシンガー・ソングライターとしての表現に昇華させていくハリスの手法は、同じく生粋のニューヨーカーである大御所ポール・サイモンに通じるものがある。80年代半ば以降、サイモンが遠くアフリカをも見据えた「旅する音楽家」を標榜しているのと同じように、ハリスもまた文化の中心地たるニューヨークにとどまることを良しとせず、外に出ていくことを志向するアーティストである。
最新作「アクアレル」はポルトガルのリスボンでレコーディングした。振り返れば2012年のアルバム「サブ・ローサ」はブラジルのリオデジャネイロ録音だったし、09年の「ウォッチング・ザ・スカイ」はカリブ海のバハマのスタジオで録音している。現地の音楽語彙を取り入れるために遠くまで出向くというよりは、異なる土地の息吹や生活感を受けることで、開かれたニューヨーカーとしての立ち位置を確認しているといった印象だ。そうすることによってハリスは、洗練された米国人としてのポップスを紡ぎ出すのである。
「アクアレル」の収録曲を中心に進められたこの夜のライブには、ポップミュージックの本流を生んだ米国の音楽文化の強さと表裏一体のしなやかさが息づいていた。謙虚さも備えたハリスの表現に接していると、別に虚勢を張って生きなくてもいいじゃないか、心を癒やす音楽と精神的に満たされた生活があればそれで十分ではないか、と諭されているような心持ちになってくる。
中盤ではバンドの3人がいったん退場し、ハリスが1人で弾き語りを披露した。一時は自ら歌うことを封印していた「ドント・ノウ・ホワイ」も歌詞を噛みしめるように歌い、観客からひときわ熱い歓声と拍手を浴びていた。
この甘美なメロディーラインを持つ「ドント・ノウ・ホワイ」という曲は、恋人とやり直せたかもしれないのに何故かそうしなかったという後悔を詩的につづった歌なのだが、こうして改めて作者のハリス自身がニュートラルに、訥々(とつとつ)と歌うのを聴いていると、今の米国の政治状況になぞらえた歌のように聞こえてくるから不思議だ。つまり健全な合衆国が去ってしまうのを止めることができなかったことに対する、米国人の自責の念を歌っているように聞こえてしまったのである。
ハリスはいわば腰の低い賢者。彼の歌声は耳に優しかったが、とても雄弁に、歌詞より多くのことを語っていた。18年12月19日、ブルーノート東京。
(音楽評論家 佐藤 英輔)
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