漫画家・松本零士さん 父の戦争体験から得た宇宙観
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は漫画家の松本零士さんだ。
――お父さんは陸軍将校でベテラン戦闘機乗りでした。
「戦争中は兵庫県の明石にいました。航空機工場で試験飛行をしていたのです。家には飛行眼鏡や飛行帽、拳銃もありました。兄貴と2人で拳銃をいじり回し、撃ってみようと窓から銃身を出したら『触るな。それは危ない!』と叱られたことも。父の趣味で手回し映写機もあったおかげでフィルムの原理を5歳で理解でき、後のアニメ制作に役立ちました」
「父が南方に出た1944年から、母の郷里の愛媛県新谷村(現・大洲市)に疎開しました。川で溺れかけたり、ウナギを仕留めたと思ったら毒蛇だったりと自然とのふれ合いの日々でした。爆撃機B29が呉や松山方面に飛び去るのをよく見上げていました」
――戦後は一転、生活が苦しくなります。
「父は終戦後マレー半島で2年半幽閉され、帰還後は公職追放で仕事がない。親類を頼って移った小倉の家はバラックでした。そこに息子を亡くした女性が訪ねてきて、せがれをなぜ連れ帰ってくれなかったと父を責めました。戦艦『武蔵』が撃沈された戦いで父は部下の大半を亡くしました。止めても血気にはやって離陸したそうです。息子を失ったその方に父は『すまん』と頭を下げていました」
「敵機を撃墜するとき、あいつにも悲しむ家族がいるのだという思いがよぎったそうです。それでも鬼になって撃たねばならない。戦争はそれほど残酷なものだと話してくれました。戦後はまた飛行機に乗る誘いもあったようですが、部下を失い『今更どの面下げて乗れるか。絶対に乗らん』と生活が苦しくても曲げませんでした」
――作品に登場する宇宙への関心もお父さんから?
「愛媛にいた頃、山で炭焼きを手伝うと空に火星がみえました。火星人はおるか、と聞くと父は『おるかもしれんし、おらんかもしれん』と。宇宙への興味が一層膨らみました。父の体験談も覚えています。太平洋を飛んでいると静かな海峡があり、海面に天空が写る。すると上下の感覚がなくなり、星空を飛んでいる気持ちになるそうです」
――高校生で新聞に漫画を連載し、卒業後上京します。
「1日1枚350円。家計の足しになり学費もまかなえました。漫画賞の賞金の5千円、今なら30万円くらいの価値でしょうが、そのまま父に渡すと『使っていいか』と聞くので、いいと答えました。金がないから大学進学はあきらめて東京に行くと宣言したところ『自分で決めたのか』と問われ、そうだと言うと父は『よし、それなら行け』と送り出してくれました」
「小倉駅で母と弟が見送ってくれました。そのときの情景は『銀河鉄道999』で鉄郎が旅立つシーンそのままです。あれは自分なんですよ」
[日本経済新聞夕刊2019年1月8日付]
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